長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

赤く燃え上がった町

2011年6月16日 掲載
谷川 正濶(73) 谷川正濶さん(73) 爆心地から4キロの長崎市西小島で被爆 =長崎市葉山1丁目=

当時7歳。朝から発令されていた空襲警報が解除になり、兄と2人の妹の4人で、町内で防空壕(ごう)掘りをしていた母親の元に向かった。

防空壕の外で母親を待っていると、突然、目の前をピカッと稲妻のような強烈な閃光(せんこう)が走った。驚いて、すぐに防空壕の中に逃げ込んだ。

幸い自分や3人のきょうだい、母親にけがはなかったが、しばらくすると、けがをした人が次々と防空壕にやってきた。白いカーテンやシャツを包帯代わりに巻いていた。兄は、負傷者の1人から「もう長崎の町は全滅ばい」と外の様子を聞かされたと話していた。

少し時間がたち、1度外に出てみた。高台からまず目に入ったのは、赤く燃え上がった県庁の大きな建物。周囲を見渡すと、長崎駅の方が真っ黒い雲に覆われていた。

夕方、きょうだいと母親で自宅に戻った。建物は無事だった。しばらくして、長崎税関に勤めていた父が頭に包帯を巻いた姿で帰ってきた。私たちのことを近所で捜し回っていたようだった。勤務先でけがをしたらしく、白い包帯が血で真っ赤に染まっていた。

12日ごろだったか、家族6人で西有家町(現南島原市)に住んでいた親戚の家に疎開。しかし、他の親類もたくさん疎開してきていて、一晩だけ泊まってすぐに長崎へ戻った。原爆投下から何日かたったのに、長崎の町はまだそこら中で煙がくすぶっていた。

自宅の近くには臨時の火葬場が設けられ、毎日のように多くの死体が運び込まれ、順番を待って並べられるようになった。時間がたっていたからか、丸裸ではなく、浴衣などを羽織って身なりを整えた状態で火葬されていた死体が多かったと思う。それでも、次々と死体が焼かれていく様子は、子どもながらに、本当にいたたまれない気持ちにさせられた。

<私の願い>

原爆は多くの人の命を一瞬で奪う「魔物」にほかならない。核兵器の恐怖を語り継ぐことは、世界で2カ所しかない被爆地に住む人間に課せられた使命だと思う。若い人たちは、時間はかかってでも、核兵器は世界から絶対に廃絶できるんだという強い気持ちを持って、声を上げ続けてほしい。

ページ上部へ