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私の被爆ノート

県庁周辺一面火の海

2011年6月9日 掲載
松島 貢(79) 松島貢さん(79) 爆心地から4・4キロの長崎市大浦元町(当時)で被爆 =長崎市日の出町=

当時、旧制県立長崎中2年。学校に兵器工場ができ、生徒が午前と午後の組に分かれて手りゅう弾の柄のような部品を作っていた。9日は午後に作業をすることになっていたので、午前中は大浦元町(当時)の自宅の近所で下級生と将棋を指していた。

家で食事をして、出発しようと玄関のドアを開けた途端、周囲がぱっと光に包まれた。驚いて、学校で訓練していた通りに耳と目を押さえて地面に伏せた。「爆弾がすぐ近くに落ちたんだ」。爆風が収まって顔を上げると、家の前にあった公民館は壁が吹き飛ばされ、柱だけになっていた。家の中に戻ると、玄関脇の部屋でたんすと障子が倒れており、母と姉と妹はその隙間にいて運よく助かった。

裏庭から逃げようと、隣家との垣根を壊していると、空に黒い雲が急速に広がるのが見えた。自分を追い掛けてくるようで恐ろしかった。

4人で近所の小学校にあった防空壕(ごう)に向かった。他に逃げてきた人の話を聞いて初めて、自宅そばに爆弾が落ちたのではないと分かった。けがをした人は少なかったが、背中にやけどをした一つ年上の先輩が戸板に寝かされて運ばれてきて、その母親がアロエの葉を背中に貼って看病していた。

夕方、家の様子が気になって帰り、倒れたたんすなどを戻した。県庁が燃えるのが見え、夜には市役所付近も含め、一面火の海になっていた。家族は防空壕で一夜を明かしたが、何か起こってはいけないと、自分だけ家で寝たように記憶している。

翌日の昼前、学校へ行ってみようと出掛けた。寺町付近では建物が傾いて瓦が落ちたり、ガラスが割れていたりしていた。今の伊良林小の近くで同じ学校の二つ上の先輩に会った。知り合いではなかったが「元気だったか、大変だったな」などと声を掛けられた。

<私の願い>

人間的な生活をするためには戦争は絶対にしてはいけない。国や人種の違いから人間同士いがみ合うのは愚かなことだ。簡単に命を奪うだけでなく、核兵器のように何年にもわたって苦しみを与えることはやめてほしい。被爆の恐ろしさは、知っている人がしっかり伝えていかないといけない。

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