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私の被爆ノート

帰らなかった母と妹

2011年6月2日 掲載
牟田 満子(75) 牟田満子さん(75) 爆心地から2・5キロの長崎市西山1丁目(当時)で被爆 =長崎市西山1丁目=

当時9歳だった私は西山1丁目(現西山本町)の自宅近くの公民館で友達と勉強をしていた。ちょうど勉強を終え、筆箱のふたを閉めようとしたとき、窓の外がピカッと光り、まるで電気がついているように真っ黄色になった。「ちょっと外を見て」-。そう言葉を発した瞬間、すさまじい爆風が窓ガラスをすべて吹き飛ばした。友人と重なり合うように慌てて机の下に潜った。「母ちゃん、母ちゃん」とみんな泣いていた。

辺り一面はガラスの破片が飛び散っていたが、はだしのまま夢中で近くの防空壕(ごう)まで走った。気が付くと体は傷だらけ。防空壕では傷の手当てをしてもらい、その後自宅に帰った。

家にいた二人の妹と祖母、祖父、体調を崩して自宅療養を続けていた父の無事は確認できたが、父の薬をもらいに大学病院に向かったという母と当時1歳半だった一番下の妹は帰らなかった。

翌日、朝から祖母と祖父、おじたちが母と妹を捜しに出掛けたが二人を見つけることはできなかった。大学病院の玄関付近に子どもを抱いた女性が倒れていたという話を聞いたおじたちは、そこにあった灰と土を一握り持ち帰り、妹のへその緒と一緒にお墓に入れた。

どこで原爆に遭い、亡くなったのかは分からない。せっかく生まれてきて、何も知らないまま幸せになる権利を奪われた妹を思うとかわいそうでたまらない。

当時の私はまだ幼く、二人が亡くなったという実感はなかった。でも心の中では母を求め、捜していたのだろうか。母は何度も夢に出てきた。どこにいるのかを聞きたくて「母ちゃんどこにおったと」と尋ねてみても、後ろ姿を見せるだけで何も言わなかった。

終戦後もつらい日々が続いた。長女だった私は家の手伝いや畑仕事に追われ、学校にも満足に通えなかった。「何のために生まれてきたのだろうか」と考えることも多かった。あんな思いは誰にも味わってほしくない。

<私の願い>

原爆は一瞬にしてすべてを破壊し、残された人も後遺症が現れる恐ろしい兵器。この世界からなくしてほしい。今でも当時の写真などはあまり見ることができない。二度と戦争をしないためにも、二度と原爆が使われないためにも、私たち一人一人が平和を自覚し、訴えていかないといけない。

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