空襲警報が鳴り、小学校から急いで家に帰った。当時12歳。家では3歳の弟におむすびを作って食べさせるなどお守りをしていた。
午前11時2分。太陽の何倍も明るい光が家の中に入ってきた。次の瞬間大きな音が響き、障子やふすまが次々と倒れた。天井から落ちたすすで、私も弟も顔が真っ黒になった。「近くの木場教会(現在の三ツ山教会)が空襲に遭ったに違いない」。子どもの私に想像できるのはそれが精いっぱいだったが、外に出て教会を見ると違う。岩屋山の方に目をやると、山の向こうから大きく黒い煙が空に伸びていた。強く照っていた太陽が次第に隠れ、黒い雨が降ってきた。
庭の田んぼから母が帰ってきた。おなかに子どもがおり、うつぶせになって腹をかばったという。やけどするほど背中が熱かったと言っていた。
五島町に家畜の飼料を買いに出ていた父が心配だったが、2時間ほどして無事に戻ってきた。父から街の惨状を聞いた。
爆心地に近い高尾町の母の実家で原爆に遭った祖母は、意識はあったが真っ黒焦げ。叔母は溶けた皮膚が地面を引きずるほど垂れ下がったと聞いた。2人とも8月のうちに亡くなった。
原爆投下から1週間後、知人の見舞いで聖フランシスコ病院に行った。そのときに浴びた放射線の影響で、数日後、高熱や口内炎など原爆症の症状が現れた。
病院は、200人くらいのけが人で埋まっていた。背中をやけどした患者の皮膚を医者がピンセットで少しずつ剥いでおり、うめくような悲鳴が響いていた。外では何人もの死体を重ねて火葬していた。火の間から見えた人の腕と、具合の悪くなるような臭いは忘れられない。
母が必死でかばったおなかの子は7カ月後、無事に生まれた。弟だった。現在はカトリック長崎大司教を務めている。
<私の願い>
今も世界中のどこかで戦争が起きている。戦争は互いの理解や思いやりの心が足りないから起こるもの。世界中が手を取り合い、戦争のない毎日が来ることを切に願う。自分や身内と同じように、他人も大切に思う気持ちをみんなに持ってほしい。