爆心地から4・5キロの上小島町で被爆
=長崎市泉2丁目=
当時17歳だった私は防衛召集を受け、町内の人たち約15人と田上の辺りで働いていた。三菱重工長崎造船所の施設課に勤務し大工経験があった私は、つるはしの修理を担当、他の人は防空壕(ごう)掘りをさせられていた。
あの日も私はつるはしを修理していた。ギラギラとした夏の空が広がる中、B29が飛んでいくのを見た。何か黒い物が落とされ、落下傘を広げ浦上の方に消えていった。「何だったんだろう」。作業に戻った瞬間、「ビカッ」とすさまじい光が走った。「ドカーン」という大きな音とともに私は倒れ一時意識を失った。
兵隊の声で目覚めた私はすぐ防空壕に入った。しかし、空のあまりの暗さに「何が起こったんだろう」と思い、外に出て浦上の方角を見てみた。きのこ雲が立ち上っていた。「昼食を食べて帰っていい」と言われたので、そのまま立山の実家に向かった。
市内は火の海で、私は端々を通って歩いた。途中、顔をゴム風船のように腫らした母子に会い、救護所の場所を聞かれた。原爆投下後に初めて会った人だったので、本当に驚いた。実家は傾いてガラスも散乱していたので中に入れず、私は梅の木の下で寝起きした。
近くの畑には背中にひどいやけどを負った人が寝かされていた。医者がいなくて治療を受けられず、傷口にうじがわき、かわいそうで見ていられなかった。現在の市公会堂の辺りでは、大八車に遺体が何体も乗せられ、次々に焼かれていた。周辺は異様な臭いで、とても通ることができなかった。
食べ物がなくしばらく水だけで生活したが、13日に食べ物を求め三菱に向かった。そこで出たのはヒジキで作ったパンが1日に1個だけ。毎日実家と往復し、そのパンで食いつないだ。三菱で働いていた父親が帰ってきた後、家の掃除や修理をしてようやく家の中に入ることができた。
◎私の願い
これまで当時のつらい体験を人に話すのは嫌だった。しかし自分たちが原爆の被害に遭ったからこそ、どこの国の人にも同じ目に遭ってほしくない。私の願いは「長崎を最後の被爆地にしてほしい」ということ。この声を広げていけば、いつか必ず世界から核兵器がなくなると信じている。