西川幹子さん(90)
被爆当時16歳 爆心地から2.8キロの長崎市馬町で被爆

私の被爆ノート

気持ちいい朝、一転

2019年07月25日 掲載
西川幹子さん(90) 被爆当時16歳 爆心地から2.8キロの長崎市馬町で被爆
 
 南高千々石町(現雲仙市)で10人きょうだいの5女として生まれた。千々石小高等科を卒業した1943年、女子挺身(ていしん)隊の召集を受け、長崎電気軌道で働くことになった。私が進学を希望していたことを幹部が知り、働きながら長崎女子商業学校二部に通わせてもらっていた。
 あの日は朝から鳴っていた空襲警報がやみ、大橋営業所宛ての書類を運転手に預けるために諏訪神社前の電停にいた。とても晴れた日。気持ちがよくて見上げていたら、澄んだ青空に飛行機が飛んでいた。今思うとあれがB29だったのかもしれない。
 「ドン」。突然爆音が聞こえた。真っ黒な風が吹いてきて、電停から数メートル先の寺の壁まで飛ばされた。何が起こったのか全く分からず、爆風がやんでから、はうようにして寺へ逃げ込み、敷地内の防空壕(ごう)に隠れた。中でお寺の奥さんから真っ白なおにぎりを一つもらった。白米なんていつ以来だろう。とてもおいしくてうれしかった。今もその味が忘れられない。
 3時間ほど過ぎてから、出来大工町の電気軌道本社へ向かった。大橋営業所の従業員らがぼろぼろに焼けた服のままで避難して来ていた。外では、同じようにぼろぼろの人や全身焼けただれた人が列をなして歩いていた。まるで地獄絵図だった。
 弟の昭吾=当時(14)=は、城山国民学校に近接する三菱電機の実習場にいた。安否が気になったが「長崎から避難するように」と言われ、同僚と日見トンネルへ向かった。そしてトンネル脇のほこらで一夜を過ごした。浦上方面の空が赤く燃え、時折パチパチと光り、とても眠れなかった。朝の青空が遠い昔のことのように思えた。
 翌日、通り掛かったトラックに諫早まで乗せてもらい、千々石町の実家に着いたのは夜中だった。家族は涙を流して無事を喜んでくれた。「昭ちゃんは?」と弟の安否を尋ねられた。「分からない」と答えると、父がすぐに捜しに出掛けた。
 父の話によると、弟は実習所でがれきの下敷きになり、平戸小屋町の工場に運ばれていた。意識はあったが胸の出血がひどく、12日に亡くなった。弟には原爆の数カ月前、腕時計を貸していた。最期までそれを気にしていたらしく、看護師にずっと「姉ちゃんに時計を返さんば」と言っていたらしい。とても優しい弟だった。

<私の願い>

 原爆は罪のない大勢の市民を巻き込んでしまう兵器なのに、世界では核開発を進めている国があり、非常に嘆かわしい。戦中のひもじさや苦労も含め、あんな悲惨な思いは二度としたくない。戦争がない平和な世界になりますように。

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