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私の被爆ノート

罪のない人間をなぜ

2011年5月12日 掲載
市瀬キクノ(81) 東彼川棚町で救護被爆 =佐世保市瀬戸越3丁目=

当時15歳。東彼川棚町の実家は農家だったが、看護師になりたくて町内の川棚海軍共済病院看護婦養成所に4月に入所。病院内の寮で同級生らと寝泊まりしていた。

あの日は午前中、注射器の消毒作業をしていた。ふと外に目をやると、もくもくと大きく膨らむきのこ雲がはっきり見えた。「何やろか」と思った瞬間、地鳴りのような強烈な音が「どすーん」と響いた。訳が分からないまま、入院患者を病院裏の防空壕(ごう)に担架で運んだ。

翌日は午前4時ごろ、外庭に集合。海軍の軍人さんから、長崎に原子爆弾が落ちたことや、負傷者が貨物列車で川棚に運ばれてくることなどを聞かされた。

その足で、負傷者の収容所となった川棚海軍工廠(こうしょう)工員養成所の講堂に向かった。大やけどを負った人々が雨戸のような木板で次々と運ばれ、講堂内には足の踏み場もなかった。

人間の形は判別できたが、男女の区別はつかない状態。怖くて体がガタガタ震えた。顔は真っ赤に焼けただれ、口や鼻の回りには大小のうじ虫が動き回っていた。治療技術が未熟だったので、主に虫を取り除く作業を1週間ほど毎日続けた。

特に記憶に残っているのは一人の妊婦。初めての妊娠だったのか「おなかは大丈夫ですかね、大丈夫ですかね」としきりに心配していた。周りに飲み水がほとんどない中、「お水をいただけますか」とか細い声で求められた。脱脂綿にわずかの水を含ませて飲ませたが、足りないようだった。

それで申し訳ないと思いつつ、脱脂綿に私のつばを含ませて与えた。仕方なかった。「ありがとう」と小さな声で言われた。「また明日来ます。元気にしとってくださいね」と伝えて別れたが、その翌日に妊婦は亡くなっていた。

同じ人間なのに、なぜこれほど傷つけられなければならないのか。罪のない人間をどうしてこんな目に遭わせるのか。混乱する頭で必死に作業をこなしながら、怒りの気持ちに包まれていた。

<私の願い>

東日本大震災のニュースを見ながら、被爆者救護を思い出して涙が止まらなかった。ただ、戦争は人間が起こすもの。命を奪い合うような悲惨なことは絶対にやめてほしい。

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