長崎医科大の看護婦養成所の実習生として、大学の付属病院に勤めていた。16歳。忙しい毎日だったが、ほっとできたのは寄宿舎でする茶道と華道。寝るときもすぐに逃げられるよう、もんぺ姿に靴を履き、少しの食料とお金を持って過ごす日々だったので、花を生け、お茶をたてる際に着物を着られるのが何より楽しみだった。
あの日は先輩と当直の日で、蒸し暑かった。午前11時2分。内科病棟3階の処置室で、ブドウ糖にビタミン剤を入れた薬液を注射器に入れる寸前だった。爆音が聞こえたと思ったら「ドン」と音がして赤い火のような光と熱風を感じた。気が付くと友人が動いたので「生きている」と思った。
逃げなければ、と玄関に出ると、結核病棟2階のベランダで患者が助けを呼んでいた。崩れたコンクリートを払いのけ、患者の浴衣の袖で包帯を作り、傷の手当てをした。
そこでほっとしたのだろう。自分の顔から血が出ているのが分かった。無数のガラス片が刺さっていた。その一つはまだ皮膚の中にあり、つまむととがっていてキリキリと痛む。今は「人生の宝物」だと思って、死ぬまで持っていようと思う。
病院裏の穴弘法山で一夜を過ごした。逃げる途中、大勢の人が「水が飲みたい」と水たまりに顔を突っ込み、辺りには数え切れないほどの死体があった。町は一面火の海。地獄だった。山には頭に包帯をぐるぐる巻いた日本兵が銃を持って立っていた。「ああ、これじゃ負けるな」と感じた。
その後、茂木に避難。15日に実家の佐賀に戻ることにした。長崎駅の列車の中で玉音放送を聞いた。乗客は「米兵から銃で撃ち殺される」と言い合ったが、何もなかった。
実家に戻ると母が「見つけに行けずにごめんね」と泣き崩れ、後は言葉にならなかった。頭の無数のシラミを丁寧に取ってくれた。1カ月後、大学から「来てくれないか」とはがきが来た。もともと看護師を志していたわけでもなく「私は何でこんなところに…」と思った時期もあった。でもこのはがきには「また仕事ができる」と素直にうれしく、身支度を急いだ。
<私の願い>
戦争は大嫌い。今もアフリカや中東の紛争のニュースをテレビで見ると嫌になる。二度とあんな悲惨なことは繰り返してはいけない。