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私の被爆ノート

遺体の山 地獄のよう

2011年4月14日 掲載
吉本 進(84) 吉本進さん(84) 爆心地から4キロの東立神町で被爆 =松浦市志佐町笛吹免=

1943年3月ごろ、徴用で長崎市の三菱重工長崎造船所へ。軍艦に使う鉄板を切る担当をしていた。

真夏の暑い一日だった。工場で仕事をしていたところ、米軍のB29爆撃機のごう音が耳に飛び込んできた。間もなく空襲警報が鳴り響き、工場の外に出ると同時にものすごい閃光(せんこう)に襲われた。身を伏せると、猛烈な爆風が吹き荒れた。

広島の原爆は「鋭光性能爆弾」と聞かされていて、このことかと思った。驚きのあまり、その後のことはよく覚えていないが、どうにかして小ケ倉の寮に戻った。寮は丈夫な建物ではなかったが、ガラスが割れた程度だった。

2、3日して、寮の班長の指示で、浦上で救護活動をすることになり、数十人で向かった。2時間ほど歩いただろうか。爆心地に近づくにつれ、地獄のような惨状があらわになってきた。

辺りは一面焼け野原。片方の柱で立っている山王神社の鳥居が目立っていた。路面電車は骨組みだけを残し、乗客は座ったまま黒焦げに。レールはあめのように曲がっていた。靴を履いていたが、地面から原爆の熱が伝わってきた。

途中で「兵隊さん、水をください、助けてください」という声が聞こえたが、どこからか分からず、助けることができなかった。浦上川では、多くの遺体が足の踏み場もないほどに横たわり、折り重なっていて、水を飲んだためか、体が膨張していた人もいた。あちこちで馬も倒れていた。

マスクをしていたが、真夏だったので異臭がひどく、しばらく染み付いていた。けが人を助けるのが目的だったが、遺体を運んで火葬する作業を2日間、ほぼ通して行った。燃やさないとどうにもならない状況だった。

あの光景はこの世の地獄としか言いようがない。

<私の願い>

8人きょうだいだったが、食料不足もあってか、私を除きみんな戦時中に病気で亡くなった。とにかく戦争はするものではない。特に一発で多くの命を奪う核兵器はもうたくさん。戦争で互いに使えば、その国どころか、人類の存続すら危ぶまれる。長崎、広島での苦い経験を学ぶべきだ。

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