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私の被爆ノート

「早く病院に」思い募る

2011年3月24日 掲載
山本 義憲(81) 山本義憲さん(81) 諫早中での被爆者救護で被爆 =西海市大瀬戸町雪浦下釜郷=

当時17歳。県立農学校(現在の諫早農業高)の2年生だった。あの日は、学校近くの半蔵川の堤防付近で乳牛の飼料を確保するための草刈りをしていた。

50人近くの同級生と作業をしていると、西の空に米軍のB29爆撃機が見えた。近くに陣取っていた陸軍の高射砲隊が砲撃したが当たらず、爆撃機はそのまま長崎方面へ向かった。しばらくすると、ドラム缶のようなものをつり下げた落下傘が機体から投下され、ゆっくり山の向こうに消えていった。

「ありゃあ、何やろうか」。友達と話しながら作業をしていると突然、ビカーと見たことがない青白い閃光(せんこう)がして、数秒後にドドーンというものすごい爆発音が響き、われわれは驚くばかりだった。

寮内で昼食を済ませた後、正午ごろ外に出ると太陽が真っ赤に染まり、まぶしくも何ともない。「こりゃあ、長崎で大変なことが起こっとる…」。仲間たちとうわさしながらその日の作業を終えた。

次の日から学校では順番に、長崎方面から運ばれてくる被爆者の救護に当たった。私は19日に、諫早中学校に運び込まれた被爆者を佐世保海軍病院諫早分院(現在の健康保険諫早総合病院=諫早市=の一部)に搬送する作業に従事した。

諫早中学校では布団もない板張りの上に、50人ほどの被爆者が無造作に横たえられていた。ひどいやけどを負っているのに目をつむったまま、うめき声も上げない。赤くパックリと割れた傷口に大量のうじがうごめいたり、真っ黒になるほどハエがたかっていても取り払おうとしない。

汚いという感情はなく「早く病院に運ばないと」という思いばかりが募った。4人一組で、担架で同分院までの約2キロを何度も往復した。寮に帰ると、疲れでぐったりして眠った。後になって初めて、原子爆弾という兵器が落とされたことを知った。

被爆者たちが、その後どうなったかは分からない。仲間と「あの人たちは、たぶん助からなかっただろう」とうわさし合った。

<私の願い>

相手を殺さなければ、自分が殺される-。戦争は残酷だ。絶対にしてはいけない。戦争や原爆で被害を受けるのは弱い市民たちなのだから。今は本当に平和な時代。復興のために汗を流してきた先輩たちのおかげ。この平和がずっと続いてほしい。

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