「助けてください」「水をください」-。路上で叫ぶ人々。あちこちに横たわる数々の遺体。「新型爆弾」が落ちた後の記憶は断片的だ。恐らく驚きや悲しみでもない放心状態の日々が続いていたのだろう。
当時18歳。八千代町のガス会社で事務をしていた。あの日も朝から普段通り出勤した。今思うと机は浦上の方角を向いて窓側に並んでいた。下を向いて仕事をしていると何かが「ピカッ」と光った。とっさに机の下に潜り込むと直後に天井が落ちてきた。
慌てて同僚の女性と一緒に逃げ出した。西山方面から山越えして2人の自宅がある浦上の方に行ったと思う。逃げるのに一生懸命であまり覚えていない。その日は暗くなっても家まで帰れずに小屋のような所で一夜を明かしたと思う。
翌朝は駒場町の防空壕(ごう)に向かった。私にけがはなかったので負傷者の救護に当たった。油木町の市立商業学校にも向かったが、数えきれない人がけがをして運ばれていた。
家族もバラバラになった。母は祖父の葬式で西彼三重村(現長崎市)の実家に戻っていた。父と6歳下の弟の行方が分からなくなっていた。
数日後、身を寄せていた友人宅に母が訪ねてきた。母は私が立ち寄りそうな場所をずっと捜してくれていた。
2人で橋口町の自宅に向かった。周辺は見る影もなく変わってしまっていた。家々はがれきの山となり、自宅があった場所に行くと、頭部がない男性の遺体があった。いつも身に着けていた大きな懐中時計を見て父だと分かった。母と一緒に火葬した。自分の親を自らの手で焼くなんて…。もくもくと上がる煙をただぼうぜんと眺めていた。
弟は今も見つかっていない。川遊びに行ったと数カ月後に聞いたが、手掛かりは何もない。どうして弟を捜し出せなかったのか。くやしくてならない。
<私の願い>
原爆はもちろん戦争はもう絶対にしてほしくない。戦争によって被害を受けるのは間違いなく一般市民。今も世界各地でいざこざが起こっているけれど、話し合いで解決できないのだろうか。世の中に憎しみばかりが増えていってしまう。どんなに貧しくても平和が一番いい。