西尾 弘毅
西尾 弘毅(68)
西尾弘毅さん(68) 爆心地から9・8キロの竿浦町で被爆 =北松佐々町本田原免=

私の被爆ノート

母の機転で難を逃れ

2011年3月10日 掲載
西尾 弘毅
西尾 弘毅(68) 西尾弘毅さん(68) 爆心地から9・8キロの竿浦町で被爆 =北松佐々町本田原免=

当時はまだ2歳。あまりに幼すぎて当時の惨状は、ほとんど記憶にない。だが、私の誕生日はくしくも終戦記念日。32年前に他界した母カヨは盛夏が近づくと、「あの日」のことをよく話してくれた。

父円作(96)は、1938(昭和13)年に現在の佐世保市小佐々町で洋服店を開業した。戦時中、甲状腺が悪く戦地に行けなかった。造船所に徴用された父とともに一家で長崎市に転居。父は裁縫の腕前を生かし、戦艦用のマットを製造していた。

「あの日」は朝から空襲警報が鳴っていた。午前11時、母は1歳の弟と私を連れ防空壕(ごう)へ逃げた。途中、猛烈な爆風に見舞われた。母は2人の兄弟を小脇に抱え、側溝に飛び込んだ。船の甲板で休憩中だった父も爆風を受けたが、無事だった。

原爆投下の翌日から父は爆死した同僚の捜索へ向かった。発見された亡きがらは木々を集め、燃やした。「死臭が染み付いて離れない」と話していた。母は「水、水」とうめく人に水を分け与えていた。

幸い、父が腕の良い職人だったため、衣服の修繕などで小金を稼ぎ、食うに困らなかった。2歳の私に一つだけ記憶があるとすれば母や弟と食べた茂木ビワの甘い味だ。爆心地近くには水も飲めず死んだ同じ年ごろの子どもがいたはず。恵まれていたと思う。

終戦後、帰郷して北松佐々町に洋服店を再開した。つつましい生活だったが、家族4人、生活できるだけで十分だった。父は「自分は生き延びることができたから」と、65歳まで被爆者健康手帳を申請しなかった。

小学6年の時、「日本一の洋服店」になると心に決め、91(平成3)年に労働大臣表彰「現代の名工」の栄誉を得た。今、振り返ると、亡き母が機転で側溝に飛び込んだことで、難を逃れ、生きることができた。母の愛に守られていたのだ、と思うと涙が出そうになる。

あとどれくらい生きられるか分からないが、父母への感謝の気持ちを忘れず、生きていきたいと思う。

<私の願い>

米国の「戦争終結のために原爆投下は仕方なかった」という理屈には怒りが込み上げてくる。核兵器では平和は守れない。核保有国は核廃絶に協力すべきだ。広島や長崎の惨状から世界は学ぶべきだ。私には4人の孫がいる。子や孫のためにも、戦争のない平和な時代が続くよう祈りたい。

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