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私の被爆ノート

ラジオで直感「危ない」

2011年3月3日 掲載
坂本眞鶴子(82) 坂本眞鶴子さん(82) 爆心地から2・0キロの稲佐町2丁目で被爆 =島原市中堀町=

空襲にたびたび見舞われた戦争末期、16歳の私は、長崎市の活水高等女学校から三菱長崎造船所(飽の浦町)に学徒動員され、造船所からトロッコ列車で通う向島の事務所で事務員をしていた。

長崎駅を望む高台の稲佐町2丁目に家族7人で住んでいた。1945年8月9日、工場は休みで、妹2人、弟2人と自宅にいた。朝、空襲警報が解除された後、午前11時ごろ、ラジオで「B29、島原半島を西進中」という放送を聞いた。

座敷から窓の外を見ると、東の山の方に2機の飛行機が見えた。「危ない」と直感し、弟や妹を連れ、とっさに壁の裏側へ回った。次の瞬間、強烈な光が走り、爆風が私たちを追い掛けてきた。

屋根や床が吹き飛ばされ、一番下の3歳の弟は顔にやけどを負っていた。壁側に並べて置いていたたんすにはガラスの破片がいくつも突き刺さっていた。

しばらくすると、母が外出先から戻り、6人で町内の防空壕(ごう)に避難した。下を見ると長崎駅辺りの建物がどんどん燃えていた。広島に落ちた「新型爆弾」のことは聞いていたが、何がなんだか分からないまま、壕で一夜を過ごした。茂里町の三菱兵器長崎製作所で被爆した父は、頭に軽いけがをしたが、無事に戻ってきた。

翌朝、3歳の弟を背負い、母らと道ノ尾駅まで歩いた。異臭が漂うがれきの街。血まみれで傷ついた人々、焦げてひっくり返った牛や馬を見た。空襲に遭った際、目と耳を手で押さえるよう学校で訓練されていたが、そのままの姿で黒焦げの少年の遺体が横たわっていた。無残だった。

ようやく道ノ尾駅にたどり着き、ぎゅうぎゅう詰めの列車に乗り、疎開先の千綿へ向かった。千綿に着いたのは11日の早朝だった。

原爆で学友を亡くした。もしあの時、ラジオを聞いていなかったら、自分たちも無事ではいられなかっただろう。

<私の願い>

戦時中は食べ物がなく、学徒動員で勉強もろくにできなかった。今、世界各地で起きている紛争を見聞きすると、なぜ人間同士争うのか心が痛む。ましてや核兵器は絶対に許せない。これまで被爆体験を語ったことはなかったが、二度と繰り返さないためにも事実を伝えていかねばと思う。

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