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私の被爆ノート

助け呼ぶ声、今も脳裏に

2011年2月24日 掲載
川内 利春(83) 川内利春さん(83) 爆心地から2・3キロの住吉町で被爆 =雲仙市南串山町乙=

当時17歳。南串山町の実家を離れ、徴用先の長崎市大橋町の三菱長崎兵器製作所で魚雷部品の製作に追われていた。しかし、戦況が悪化したため疎開工場の住吉トンネル工場に移っていた。

突然、ドーンという爆音とともに青い炎がトンネル内を走った。入り口近くのコンクリートの爆風よけの裏側にいたため、けがはなかった。憲兵の指示で、無事だった13人が2班に分かれ、大きな被害が出たという大橋工場の救助活動へ駆け足で向かった。工場はがれきの山だった。生存者を捜していると小さな声が聞こえた。「誰かいるのか」と叫ぶと、「助けてください」と食堂の下にある地下室辺りから女性の声がするが姿は見えない。地下室の上には材木などが重なり、さらに熱で曲がりくねった鉄骨が覆っていた。仲間を集め、鉄骨の下に木を差し込んで押しのけようとしたが、びくともせず木が折れた。

工場の所々に火が上がり、煙が立ち込めていた。息苦しく、火の勢いは増すばかり。あきらめるしかなかった。女性に「もっと人数を集めてくる」、そう言って立ち去った。女性の声が今も脳裏に焼きついている。

この後、西郷寮(西町)に向かった。寮は焼け落ち、同郷の友人を捜し出すことはできなかった。近くで横たわっていた男性から「兵隊さん水をください」と頼まれ、ツワの葉に水をくんで飲ませたとたん、息絶えた。救護列車に乗せるため、鉄道の線路まで、大やけどを負い生きているのか死んでいるのか分からない人を戸板に乗せて運ぶのも手伝った。夕方、トンネル工場に戻り、配られたにぎり飯にかぶりついた。食べた後、自分の手のひらを見て驚いた。けが人を運んだ際に、焼けただれた赤黒い人の皮がこびり付いていた。

線路に、けが人を運ぶ作業を夜まで続けた後、けがをしたふりをして救護列車に乗り、諫早で降りた。草履の鼻緒が切れ、はだしで夜通し歩き、昼すぎに南串山の家にたどり着いた。

<私の願い>

長兄は硫黄島に向かう途中に戦死、2番目の兄は出征先の台湾で腸チフスになって死んだ。工場で女性を助けることができず、申し訳ない気持ちを引きずってきた。つらく、これまで誰にも話せなかったが、事実を伝え残さなければと思い直した。戦争だけは二度と繰り返してはならない。

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