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私の被爆ノート

水槽にゆでられた少女

2011年2月10日 掲載
立石 雄英(80) 立石雄英さん(80) 爆心地から3・5キロの飽の浦町で被爆 =平戸市大島村=

5人兄弟の四男で、家計を助けるため長崎市飽の浦町の三菱長崎造船所の養成工になった。当時は入社2年目の15歳。仕事の傍ら、浜口町の三菱長崎工業青年学校の高等科に通っていた。

ひどく暑い日だった。登校日だったが、「特別増産月間」のため学校は休みで、造船所のトンネル内で部品加工をしていた。トンネル入り口では、数人の兵士が上半身裸で土のうを積んでいた。

午前11時すぎ。突然、ドーンというごう音が響き、明かりが消えて風が吹き込んだ。とっさに体を伏せたが、何も見えず生き埋めにされたかと思った。やがて、兵士たちが背中一面にひどいやけどを負って入ってきた。

外に出てみると、対岸の市街は火の海。クレーンの陰にいて無傷だった友人から、「空から落下傘が三つ落ち、爆発した」と聞いた。新聞で読んだ、広島に落ちたという新型爆弾に違いないと思った。その夜は山中で過ごした。

翌日、造船所の上司の命令で青年学校での救助活動に向かった。焼け野原を歩き、稲佐橋のたもとの防火水槽の中に7、8歳くらいの少女が入っているのが目に留まった。裸のまま眠っているように見えたが、真っ赤にゆで上げられていた。熱くて逃げ込んだのだろう。その姿が今でも悲しく、脳裏に浮かぶ。

救助できたのは、校門の前に横たわっていた同級生の男性1人だけだった。病院に運んだが、長くはなかったようだ。青年学校は爆心地から約0・7キロしか離れておらず、木造2階建ての校舎は全焼し、焼け残った鉄製の台の下には、10人分ばかりの白骨が頭を突っ込むように並んでいた。

敗戦後、数日して米英の連合軍が長崎に上陸してきた。何十台にも連なる戦車や、初めて見るブルドーザーが街中を走った。松山町の野球場を3日間で飛行場に整地する様子を見て、「技術力に負けた」と実感した。

<私の願い>

私の長兄はニューギニアで戦死している。戦争は家族を引き裂く。絶対にしてはいけない。原爆により、今なお白血病などの後遺症に苦しんでいる被爆者もいる。この悲惨な出来事を二度と繰り返してはならない。核兵器を廃絶し、二度と戦争のない平和な世界を築きあげたい。

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