青崎 善弥
青崎 善弥(83)
青崎善弥さん(83) 爆心地から約3キロの飽の浦町で被爆 =新上五島町七目郷=

私の被爆ノート

ただ黙々と死体運ぶ

2011年1月20日 掲載
青崎 善弥
青崎 善弥(83) 青崎善弥さん(83) 爆心地から約3キロの飽の浦町で被爆 =新上五島町七目郷=

当時17歳。上五島の国民学校を卒業し、寮生活をしながら三菱長崎造船所(長崎市飽の浦町)で働いていた。あの日は、朝から船の溶接のため高さ約40メートルのクレーンに登り、運転席で船体を持ち上げる作業をしていた。

午前11時になり「もうそろそろ昼飯か」と思っていたら、突然、運転席の窓から光が差し込み、「ドォーン」という大きな音がした。音が聞こえてきた浦上方面を見ると、大きな煙が立ち上っていた。

非常用のロープを伝ってクレーンから降り、同僚らと何が起きたのか話したが、何も分からなかった。とりあえず食堂で昼食をとり、休憩していると、電話で状況を聞いた上司が「稲佐の川の中に死体がいっぱいおるから揚げにいけ」と指示を出した。

同僚たちと浦上川の河口付近に行くと、川は死体であふれかえっていた。どの死体も真っ黒で誰が誰だか分からない。「水をくれ」と助けを求める悲痛な声もあった。同僚たちは皆、あぜんとし、言葉を発する者はいなかった。

私は同僚と死体を長崎駅へ運ぶ作業に当たった。2人で死体の両手両足を持って、何往復も何往復も。感覚がまひしていたのか、怖いという感情はまったくなかった。死体は真っ黒焦げで人を運んでいる感じさえしなかった。ただ黙々と死体を運び続けた。

夕方になり福田にある寮に戻った。食料庫にあった米を炊いてご飯を食べた後、疲れていたのかすぐに寝た。

翌朝、また浦上川に行ったが、まだ多くの死体が残っていた。上司が「死体には触るな」と言ったので、死体の運搬はしなかった。同僚たちと川をさかのぼると家は倒れ、当たり一面は焼け野原。どこがどこなのか分からなかった。「よっぽど大きな爆弾だったんだろうな」。戦争の悲惨さをあらためて痛感した。

<私の願い>

何もない焼け野原や浦上川の多くの死体を見て思うのは、核兵器は使ってはいけないということ。核保有国は核の悲惨さを知らないのだろうか。核は世界のトップが集まって徹底的になくすべきだ。そのために日本の政治家にはもっとリーダーシップをとってもらいたい。

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