中川 好子
中川 好子(74)
中川好子さん(74) 爆心地から2キロの西北郷(現在の柳谷町)で被爆 =長崎市柳谷町=

私の被爆ノート

「水を下さい」響く声

2011年1月13日 掲載
中川 好子
中川 好子(74) 中川好子さん(74) 爆心地から2キロの西北郷(現在の柳谷町)で被爆 =長崎市柳谷町=

あの日、私は柳谷町の父の実家できょうだいたちと遊んでいた。「ゴーン」と飛行機のエンジン音が聞こえた。次の瞬間、突然、爆風とともにガラス戸が割れ、飛び散った。私たちはとっさに床に突っ伏した。

当時8歳。御船蔵町の自宅から西坂国民学校に通っていた。8月に入り、近くの長崎駅が空襲を受けたため、前日に家族全員で避難したばかりだった。

しばらくして外に出ると、浦上方面に立ち上る大きなきのこ雲が見えた。不気味で恐ろしかった。「また空襲があるかもしれない」。父の指示できょうだいたちと家の裏の防空壕(ごう)に逃げた。原爆で壊滅的な被害を受けた三菱長崎兵器製作所茂里町工場に勤務していた父は、夜勤を終えて早朝に実家に戻っていた。

家の隣の田んぼで農作業をしていた祖父は、上半身に大やけどを負い、皮膚がただれていた。父が周囲にあったトタン板で仮小屋をつくり、ぐったりとした祖父を中に横たわらせた。私は、消毒効果があるとされたツワブキを裏山で摘み、火であぶって傷口に塗るなど手当てした。しかし、効果は薄く、次第にやけど部分が化膿(かのう)し始めた。のちに祖父の耳から、うじ虫がぽろぽろと落ちるのを見た。おぞましい光景だった。

翌日、浦上方面から火の手が迫り、父の実家も全焼。家族全員で長与に避難した。

原爆投下から数日後、食料などを調達するため、母らと網場町のおばの家を目指した。中心部を避けて歩いている途中、文教町の長崎師範学校付近に差しかかったときだった。私たち親子の話し声に反応したのか、がれきの中から「水を下さい」「水を下さい」と女性の声が響いてきた。しかし、がれきの中のどこにいるのか分からない。助けたかったが、どうしようもできず、その場を去った。

<私の願い>

母は原爆投下から約1年後、被爆が原因と思われる病気で亡くなった。自分も病気で手術を繰り返している。知人の女性は、他県の人と結婚する際、被爆していることを理由に奇異な目で見られた。孫たちに私のような経験をさせたくない。戦争も核兵器もない平和な世の中を築いてほしい。

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