当時15歳で川棚町の青年学校2年生。あの日は(同町)木場郷の実家の庭で、両親と一緒に大豆の実と殻を分ける作業をしていた。殻を袋に詰めたとき、突然稲妻のような光が走った。数秒後には「どかーん」というさく裂音。雷かと思ったが、空は晴れていた。新聞もラジオもなく、午後になって町内の人に「長崎に新型爆弾が落ちた」と聞いた。
夕方になると、所属していた消防団第7分団に召集がかかり、近くの詰め所で夜10時ごろまで待機。川棚町に被害はないということから一時解散した。
長崎市内から負傷者を乗せた汽車は10日早朝に川棚駅に到着した。負傷者は町内の川棚海軍病院、川棚海軍工廠(こうしょう)工員養成所、常在寺に収容された。
この日、7分団は4人ずつの班に分かれ、養成所の重傷者を海軍病院に搬送する仕事にあたった。午前10時ごろ養成所に着くと、すさまじい状況に驚いた。中にいた負傷者はほとんど重傷で真っ裸。建物内には薬品臭と体臭、死臭が混ざった何とも言えない臭いが立ち込めていた。
すぐに「愛国婦人会」のたすきを掛けた女性たちから「病院に運んで」と指示を受けた。手袋もタオルもなく、負傷者の腕を素手でにぎると皮がべろっとむけた。恐怖心が駆け巡ったが、当時は死に物狂いで部落を守れという教えを受けてきたため、その場を逃げ出すこともできなかった。
負傷者は「水をくれ」と小さな声で繰り返していた。看護師から水は絶対にやるなと言われており、病院まで運ぶ約15分が非常に長く感じた。作業後も負傷者の臭いが消えず、数日間は食事がのどを通らなかった。
15日は海軍病院から火葬場まで、焼けただれて性別も年齢も分からない死体を搬送。棺おけもなく、まるで物のように変わり果てた人間をひたすら担架で運んだ。
<私の願い>
若者らに当時の救護の状況を語っても、「ああそうですか」くらいの反応。平和だからこそピンとこないのだろうが、過去の話として片付けられるのは非常に残念だ。これからも体験を語り続けたいと思うが、なぜわれわれが原爆の被害を受けなければならなかったのか、真剣に考えてほしい。