当時21歳。浜屋百貨店の衣料品部門で働いていた。通勤途中に空襲警報があり、城山1丁目の自宅に戻ろうとしていたが、解除になったため通勤。いつも通り仕事をし、休憩中に外を眺めていたその時、突然爆音が響いた。ガラスが割れ、灰の中に金粉をちりばめたような黄色い粉が舞った。「退避、退避」と上司の誘導で従業員は山の方へ避難した。
どれくらい時間がたっただろうか。家族の身を案じ、みな帰途に就いた。電車は不通。私は五島町から船に乗り旭町へ向かって、ひたすら歩いた。馬も人も息絶えて倒れた馬車、皮膚が焼けただれ赤々とした姿で「水、水」とふらふらと歩く人-。恐ろしい光景にぞっとしながら、急ぎ足で家を目指した。
やっとの思いでたどり着いた家は、跡形もなくなっていた。母と、夏休みで帰省中だった妹の姿はなかった。近所の人が4、5人固まり、血みどろになって倒れていた。若い奥さんは黒焦げの赤ちゃんと一緒に死んでいた。絶望的だった。防空壕(ごう)の近くで倒れ「痛か、痛か」とうなる女性がいた。右半身の皮膚がはがれ、顔は鬼のように腫れていた。母だった。私に気付くと「よう帰ってきたね」と優しく声を掛けてくれた。どこかで生きていてと願った妹の頭蓋骨を見つけたのは翌日のことだった。
2日後、母は「きょうだい仲良く生きて」と言い残し、静かに息を引き取った。涙は出なかった。
諏訪町のおばの家で暮らすことになった。道すがら、護国神社の下の坂には白木で大きく「ああ世は無情」と書かれてあった。誰が書いたのか、その人は生きているのだろうか。本当に世の中は無情だと痛感した。
終戦後、弟と兵役から戻った兄が建てた家で、きょうだいの新生活が始まった。母が残した言葉を胸に、私たちは必死に生きた。
<私の願い>
原爆は本当に怖い。あの恐ろしい光景、母が息を引き取る瞬間の絶望感は65年たった今でも頭に染み付いている。1人の息子に恵まれ、今は孫が4人、ひ孫が1人。大切な家族に支えられ、安らかな日々を過ごしている。戦争体験は孫たちにも語り継いでいきたい。平和の尊さを伝えたい。