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私の被爆ノート

ひたすら死体運び続け

2010年12月16日 掲載
中嶋 勇(82) 中嶋勇さん(82) 入市被爆 =西彼長与町三根郷=

「地獄も地獄」-。65年たった今もあの日の記憶は脳裏に焼きついている。当時16歳。国鉄職員として浦上駅に勤務していた。

あの日は非番で、長与村本川内郷(当時)の自宅で寝ていた。「バーン」という激しい音とともに目を覚ますと、家中の障子が内側に「く」の字に曲がっていた。長崎市方面を見ると、昼にもかかわらず空全体が煙のようなもので真っ黒に覆われていた。「長崎がやられた」と直感した。
職場を守らないといけないと思い、すぐに家を出て、歩いて浦上駅を目指した。赤迫辺りまで来ると、家屋が激しく燃えていた。線路沿いは、腕から焼けただれた皮膚がぶら下がったり、頭が割れて血だらけになった人たちが郊外に向けて歩いていた。多くの負傷者から「助けてくれ」「水をくれ」と言われたが、どうすることもできなかった。「すまん。すまん」と言いながら歩き続けた。

やっとの思いで大橋まで来たが、鉄橋の枕木が火を上げて燃えていた。先に進めず、引き返すことにした。負傷者を1人でも搬送しようと、やけどで皮膚がただれ、全身血だらけになった40歳くらいの男性の脇を抱えて道ノ尾を目指した。途中、グラマンが飛んできたので側溝に避難すると、銃弾が真横を走った。「ここまでしておいてまだ攻撃を続けるのか」。怒りを感じた。

なんとか道ノ尾までたどり着き、負傷した男性を救護員に引き渡して帰宅。翌日も浦上駅を目指した。大橋の鉄橋の火は消え、煙がくすぶっていた。やっとの思いで浦上駅に着いたが、駅舎は崩壊。何をしていいのか分からず、先に来ていた一つ年上の職員と2人で辺りにあった焼けた死体を1カ所に集めた。死体を触ることに恐怖はなかった。ただただ、何と哀れなんだと感じながら運び続けた。

<私の願い>

原爆投下で多くの民間人が命を落としたのは紛れもない事実。米国の「戦争を終結させるため」などという言い分は理解できない。大量に人を殺す核兵器が使用されることは絶対に許されない。私たち被爆者に残された時間は少ないが、体験を語り継ぐことで平和な世界が続くことを願う。

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