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私の被爆ノート

暑く、悪臭の中で介抱

2010年12月9日 掲載
飛彈 ミヨ(82) 飛彈ミヨさん(82) 東彼東彼杵町で被爆者を救護し被爆 =長崎市女の都3丁目=

当時私は16歳で、家族は父と母、弟2人の5人暮らしだった。通っていた国民学校では、なぎなたや鉄砲の練習ばかりで勉強もできず、空襲に備えて防空頭巾をいつも持ち歩いていた。

あの日、私はイモを植える作業のため畑に出ていた。「そろそろお昼にしようか」といとこの家に行き、10人くらいで集まって休んでいたところ「ピカッ」と閃光(せんこう)が走った。「新型爆弾が落ちたのでは」-。長崎の方角には大きな雲が立ち上っていた。その日の夜、長崎の空が炎で真っ赤に染まっていたことを覚えている。

次の日の朝早く、私たちは学校に呼び出され、運ばれてきた被爆者の介抱に当たるよう言われた。裁縫室には頭にたくさんのガラス片が刺さっている人、目まで真っ赤に腫れ上がった人たちが足の踏み場もないくらい並べられていた。運ばれて来た人は、学生など若い人が多かった。

私は医師の手伝いをしながら介抱に当たった。医師がピンセットを使ってガラス片を抜き取ると、「痛い痛い」と泣き叫んでいた。夏だったため室内は暑く、ハエやうじ虫、アリがたかり、本当にすごい臭いだった。運ばれて来たおばさんから「佐賀の家族に知らせてくれ」と言われたが、私はまだ若かったため、どうすることもできなかった。

室内には手を洗う場所もなく、自分たちがどのように消毒していたかも覚えていない。そのような状況の中、10日間くらい治療に当たっていたが、運ばれて来た人のほとんどは誰なのか分からないまま亡くなっていった。原爆が落とされてからもたびたび飛行機が飛んできていたので、学校からの帰り道も隠れながら帰っていた。

「被爆した人には(結婚の)もらい手がない」と言われていたため、私はしばらく自分が被爆したことを隠していた。私は直接被爆したわけではないが、ひどい臭いの中で介抱に当たったあの経験は今でも忘れられない。

<私の願い>

原爆投下から65年たった現在、被爆者は高齢化し、あの日のことを話せる人も少なくなった。原爆の恐ろしさは実際に体験しないと分からないかもしれないが、それでも私たちの体験を伝えていく必要がある。被爆者の苦悩を詳しく知ることで、核兵器を持つという考えもなくなると信じている。

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