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私の被爆ノート

内臓を手で押し込む

2010年12月2日 掲載
井川サヨ子(80) 井川サヨ子さん(80) 爆心地から1.1キロの長崎市大橋町で被爆 =五島市新港町=

当時15歳。大橋町の三菱兵器工場で働いていた。空襲警報で一時避難した後、工場で仕事に取り掛かった直後、ピカッと水色の光を目に受けて意識を失った。

つま先から電気が走ったような痛みで意識を取り戻すと、鉄骨の下敷きに。従業員が出られるよう鉄骨を広げてくれたが、立てない。右の骨盤の上の肉が拳二つが入るほどえぐり取られ、内臓が出ていた。それを手で押し込み、はって出た。

上司2人の肩を借りて線路上を足を引きずりながら歩き、山に逃げた。上司たちは「ここから動くな、午後5時ごろ戻る」と言って山を下りたが、戻ってこなかった。

山は西日が照り付け、傷がじゅくじゅくと痛んだ。夜に星を眺めると古里の五島を思い出した。「ちゃん(お父さん)、かかさん(お母さん)、助けてください」。何十回も泣き叫んだ。

ここで動物にかみ殺されるより人ごみで死んだ方が良いと思い、夜明けから必死で山を下り、何時間もかけて線路近くに着いた。ほかの負傷者や死者に交ざって横になっていると、医師が現れ、担架で運ばれた。

諫早市の長田小に収容され、治療を受けた。教室に約30人がいたが、半数は死んでいた。工業学校の生徒は狂ったように歌を歌い、その途中に息絶えた。18日ごろに海軍病院に回されると、40度の熱に苦しみ、髪の毛が抜け、全身に紫色の斑点が出た。周りが次々と亡くなる中、私は生き延びた。

約1カ月後、父が病院に現れ、抱きついて泣いた。父と私は軍医の反対を押し切り、五島に帰ることにした。家族の元で死ねば本望だった。五島行きの船に乗り、島の港に着くと、待ち受けた大勢の島民が喜んでくれた。病院で1年間かけて治療を受け、九死に一生を得た。

高齢になって大腸がんや甲状腺がんなどの手術も重ねたが、何とか生かしてもらっている。

<私の願い>

終戦を迎えたとき、心の底から「あぁ戦争が終わってよかった。今夜からゆっくり眠れる」と思った。原爆は生き地獄だった。あんな経験は二度としたくないし、今後、世界中のどこにも原爆を落としてもらいたくない。今の平和がいつまでも続いてほしいと願っている。

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