吉冨 宏
吉冨 宏(78)
吉冨 宏さん(78) 爆心地から3.2キロの長崎市銀屋町で被爆 =対馬市上対馬町大浦=

私の被爆ノート

母子の姿直視できず

2010年11月25日 掲載
吉冨 宏
吉冨 宏(78) 吉冨 宏さん(78) 爆心地から3.2キロの長崎市銀屋町で被爆 =対馬市上対馬町大浦=

当時12歳、旧制県立長崎中に通っていた。あの日は母と8歳の妹、5歳の弟の4人で銀屋町の自宅にいた。「兄ちゃん、飛行機の音が聞こえるよ」と妹が言った。耳を澄ますと「ゴー」という低い音が聞こえた。約5分後、突然、目の前が真っ白に。強烈な風が家の中に入り込み、畳にうずくまった。

気付くと家中のガラスが吹き飛んでいた。急いで逃げる準備をしたが、母は国の規則で家を守らなければならなかった。「2人を頼んだよ」。母の言葉に、兄としての責任感が込み上げた。弟を背負い、妹にはベルトを握らせ、風頭山のふもとにある防空壕(ごう)へと走った。

しばらく防空壕で過ごし、昼すぎに外に出た。近くの小高い場所から町を眺め、驚いた。浦上方面は天も地も真っ黒。県庁周辺も次々と火の手が上がっていった。

夕方になると西山を経由して人々が続々と避難してきた。皆ぼろぼろの服装で体中にやけどや傷を負っていた。一人の男性が弟の水筒を奪った。水を飲むと、ごろりと横になり、動かなくなった。幼い娘に手を引かれて逃げてきた母親もいた。母親は両目を負傷し、背負った赤ちゃんの首がないことに気付いていない様子だった。その姿を直視できず、初めて「日本は戦争に負けたのでは」と疑った。

その日は防空壕近くの墓地で寝た。翌朝、母がカボチャの塩炊きを持って迎えに来てくれた。緊張が緩み、きょうだい3人で泣きじゃくった。

4日後、親せきの安否を確認するため、家族と爆心地に近い城山町へ向かった。焼け野原には息絶えた人や馬が点々とし、満員の路面電車は遺体を乗せたまま止まっていた。地獄のような光景だった。

終戦後、中央橋には次々と遺体が運ばれた。遺体を重ねて焼くのが中学生の仕事だった。いやな作業だったが、手伝うと白いにぎり飯をくれた。空腹には勝てなかった。
<私の願い>

平和な時代になったというが、太平洋戦争に勝った国々は今もなお核兵器を保持している。対立は戦争ではなく、話し合いで解決できる。本当の平和はすべての国が核兵器を放棄してはじめて実現する。世界の国々が悲惨な戦争の時代があったことを忘れず、これからも核兵器廃絶に向けた議論を続けてほしい。

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