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私の被爆ノート

うじ虫をはしで取る

2010年11月18日 掲載
川内 フミ(85) 川内 フミさん(85) 東彼杵郡宮村(現佐世保市南風崎町)の病院で被爆者を救護し被爆 =佐世保市南風崎町=

当時は、東彼杵郡宮村(現佐世保市南風崎町)に家族9人で暮らし、農業に励む毎日。20歳だった。上空でチョウのように見えるアメリカ軍の飛行機を目にするたび、恐怖が募っていたのを覚えている。

あの日は、庭にある柿の木の下で友達と楽しくしゃべっていた。「ピカッ」-。被爆地から遠く離れた地でも確かに強い光を感じた。慌てて友達と家の中に逃げた。悪夢のような体験の始まりだった。

新型爆弾が長崎に落とされた、と大人たちに聞いたのは翌日。「被爆者の手当てをしてくれ」。地元の青年団員だった私は、自宅近くの病院で10~20日にかけ5日間、長崎から救援列車で運ばれてきた被爆者の救護に当たった。

ボロボロの服、紫色に焼けただれた肌、年齢や性別さえも分からない人もいた。大きな病院だったがベッドは足りず、畳の上いっぱいに被爆者は寝かせられていた。日がたつにつれ、被爆者の傷口にはうじ虫がわいていた。首、腕、背中、足…体のいたるところにだ。うじ虫をはしで取ってはひたすら容器に入れた。

「水がほしい、水がほしい」と苦しむ被爆者。言われていたのは「安心して死んでしまうから水はあげてはならない」。本当にかわいそうで、つらくて仕方がなかった。あのまま亡くなってしまうのだったら、最後に水をあげたかった。

自宅の上の山には火葬場があった。地元消防団が、亡くなった被爆者を運んで火葬した。山中から不気味に上がる煙を自宅から見て、今日も誰かが亡くなったんだ、と毎日思っていた。

私の二つ年上で、同じ病院で救護に当たった医者は若くして亡くなった。原因はがんと聞いた。当時は放射能の影響など知る由もなく、一心に被爆者を助けようとしたのだ。救護活動とは関係なかったのか。今も頭から離れない。

<私の願い>

原爆の惨劇は忘れることはできない。戦争は絶対にあってはならないもの。二度と経験したくないし、誰にも経験させたくない。待っているのは悲しみだけ。一日も早く核兵器のない世界になることを願っている。未来を担うのは子どもたち。どうか、優しい心を持って立派に育ってもらいたい。

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