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私の被爆ノート

貨物列車に死体並ぶ

2010年11月11日 掲載
鍬塚 重義(86) 鍬塚 重義さん(86) 爆心地から2.5キロの長崎市西山町2丁目(当時)で被爆 =長崎市中里町=

「ながさきまち はまのまち 7日8日は灰のまち」-。どこで耳にしたかは忘れたが、この奇妙な歌を信じて8月7、8日は学校を休んだ。

当時19歳、長崎経済専門学校(当時)の2年生。2日間何もなかったのでデマだと思い、9日は学校に行ったのだが…。

朝から授業を受けていた。11時を過ぎたころ、突然、教室の中で青い光がピカッと光った。反射的に目と耳を押さえて机の下に潜り込んだ。何秒か後の爆風で教室の窓が枠ごと倒れ、ガラスの破片が飛び散った。

何が起こったのか分からず、しばらく起き上がれずにいた。校庭に避難したが、体験したことがない異様な暑さを感じた。昼なのに山の向こうは燃えるように赤かった。

記憶はあいまいだが、覚えているのはその日の午後、定期券の更新で長崎駅に向かおうとしていた時のこと。中町辺りで、駅の方向から顔の皮膚が黒く焼けただれた人や、つえをつき歩くのがやっとの負傷者が大勢押し寄せてきた。その集団を目の当たりにして駅に向かうのはやめた。

翌日だったか、再び定期券の更新のため古賀村(現中里町)の自宅から汽車で長崎駅に向かった。しかし長与駅でストップ、乗客は皆降ろされた。

仕方なく帰ろうとしていたら、長崎駅方面から貨物列車がホームに入ってきた。近くの憲兵が大声で「これには乗るな」と叫んだ。隠れて飛び乗ることに成功したが、車内には瀕死(ひんし)の負傷者や死体がずらりと寝かせられていた。思わず絶句し、その場で慌てて列車を降りた。

2、3日後、友人と自転車で浦上の方に出掛けた。辺り一面焼け野原で、馬や牛の死骸(しがい)がごろごろしていた。帰宅すると、体がだるく歯茎から血が流れて1週間くらい寝込んだ。原子爆弾が落ちた場所に行くなんて。今思うと、ばかなことをしたと思う。
<私の願い>

戦争がひとたび起これば、生活の衣食住はかなり制限される。平和な世界を築くことは難しいものだ。自分たちが平和だと思っていても、他の相手がそう思わなければ、平和は成り立たない。世界から争いを完全になくすことは難しいと思うが、戦争をするよりばかなことはないと強調したい。

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