17歳の夏。戦争の影響で、活水女学校(当時)を予定より1年早く卒業し、南山手の軍司令部通信隊で電話の通信員をしていた。当番制で、全国の司令部から、どこで空襲があったか、どこでどんな飛行機が飛んだかといった内容の電話の取り次ぎをしていた。
8月6日の夜、当番だった私は、広島の兵隊からかかってきた電話を取った。「爆弾が落ちた。全滅だ」-。兵隊の口調と焦った様子に、いつもとは違う恐ろしさを感じた。後から聞けば、それが広島に原子爆弾が落ちたことを告げる電話だった。その時は、長崎に原爆が落ちるとは考えもしなかった。
8月9日は本当に暑い日だった。仕事を休み、新地町の自宅で、3歳上の姉と活水に通う2人の妹と一緒に過ごしていた。下着姿で縁側のとういすに寝そべったまま「私たちも早く疎開せんばね」などと話していると突然、周囲がパーッと青白い光に包まれた。「照明弾の落ちたよ…」。言い終わらないうちに、いすごと飛ばされて庭に転げた。町全体が真っ赤に染まっていた。「全滅だ」と感じた。
私たちは、ブルブル震えながら家の下に掘ってあった防空壕(ごう)に避難した。すぐに消防団長だった父が帰ってきて「疎開しろ」と言った。水を入れた水筒、おにぎりを持ち、姉妹4人で母やほかの姉妹が疎開していた現川の親せきの家に向かった。
西山を歩いていると、浦上方面から真っ黒な人がぞろぞろ歩いてきた。途中、女の人から声を掛けられた。全身黒焦げだったので「どなたですか」と尋ねると、小学校の同級生だった。水が飲みたいというので水筒を渡すと彼女は「ありがとう」と言い、一気に飲み干した。彼女は1週間後に亡くなったと聞いた。その夜、現川に着いた。「よう生きとった」。地面になぎ倒された竹やぶの横で母と再会を喜んだ。
<私の願い>
戦争は忘れろと言われても忘れることができない。何の価値もないし、本当の生き地獄。次の世代には、もう二度とあんな思いをさせたくない。戦争だけは絶対にしたらいかん。どんなことでも最後まで話し合って、互いを理解することが大事。みんな助け合って生きていける世の中になってほしい。