あの赤ん坊は今、どうしているのだろう。両親も祖母もなく、つらい思いで生きてきたのではないか。助けてよかったのだろうか。65年間、ずっと気になってきた。
当時17歳。女子報国隊として茂里町の三菱兵器工場で働いていた。あの日はつかの間の夏休みだった。午前11時前、自宅から少し離れた場所で防空壕(ごう)を造っていた母のところに行くと、隣組の「井手さん」のおばあさんに連れられた男の子が元気にハイハイしていた。
かわいいなと思って見ていると爆音が聞こえた。母が「味方やろか、敵やろか」と尋ねた。私は「B29だ」と叫び、とっさに赤ちゃんを抱いて防空壕に飛び込んだ。途端に吹き飛ばされた。
どれくらいたっただろう。真っ暗な中、赤ちゃんの泣き声で気が付いた。腕の中に赤ちゃんはなく、母が手探りで抱きかかえた。防空壕は入り口にあった爆風よけでふさがれ、生き埋めになったと思ったが、何とか出ることができた。
外に出ると息をのんだ。黄色い砂ぼこりが漂い、一面焼け野原。見えるはずのない浦上天主堂が焼けているのが分かった。城山小も窓から火を噴いていた。防空壕の中と外が生死の分かれ目。井手のおばあさんは亡くなっていた。
その日は自宅の防空壕で赤ちゃんと過ごした。与えるミルクもなく、翌日、井手のおじいさんが引き取った。
その後、母からおじいさんに若いお嫁さんが来たと聞かされた。そしてお嫁さんが「この子がいなかったら、本当に良かったのに」と言っていることも。戦争は、原爆は一番弱い者を苦しめる。あの時、手に抱いたぬくもりを思い出しながら涙が止まらなかった。
歳月が流れ、あの赤ちゃんのことを知っているのは私だけになった。生きているなら、会えるのなら、どんなにか慰めてやりたい。「苦労したんでしょうね」と。
<私の願い>
戦争は絶対にしてはいけない。もし今、日本が戦争に加担したら、かけがえのない孫たちの世代が戦争に取られる。あの時の二の舞いだけはしてほしくない。