高嶋 進
高嶋 進(79)
高嶋 進さん(79) 爆心地から3.5キロの八坂町で被爆 =長崎市鍛冶屋町=

私の被爆ノート

あちこちで死者焼く煙

2010年10月7日 掲載
高嶋 進
高嶋 進(79) 高嶋 進さん(79) 爆心地から3.5キロの八坂町で被爆 =長崎市鍛冶屋町=

当時、旧制海星中学校の2年生で14歳。2年生は工場動員も授業もなく、自宅待機だった。八坂町(現鍛冶屋町)にある自宅の玄関先で同級生と立ち話をしていて「広島市がわずか2機の敵機で全滅したらしい」と聞いて驚いた。

飛行機の音がしたので同級生はすぐに帰った。直後、カメラのフラッシュの何百倍とも思える強い光が走り、雷の数百倍もするような音が響いた。そして一瞬にして周囲が闇に変わった。何が起きたのか分からず、驚いて家の奥に逃げ込んだ。

母が呼ぶ声でわれに返ると、家の窓ガラスは割れ、畳は吹き飛んでいた。向かいの家の庭に掘られた防空壕(ごう)に母と逃げたが、さらに空襲があるかもしれないと思い、山手にある清水寺へ。しかし、続々と人が避難してくるので、田上町の知人宅に行き、夜を迎えた。県庁付近が大きな火の海になっているのが見えた。

市内では生活できないと、西彼喜々津村(現諫早市多良見町)の親せきの家に向かった。市中心部を歩くと、けがをして逃げてきた人が力尽きたらしく、あちこちに倒れていた。とてもこの世のものとは思えなかった。喜々津で数日を過ごし、終戦を迎えた。外傷はなかったが、唇や歯茎から出血があり、治るのに3週間かかった。

海星はミッションスクールなので、8月末に生徒が集められ、倒壊した浦上天主堂のがれき撤去作業に行った。途中の道端には人や馬がそのままの姿で焼け焦げていた。死んだ人を焼く煙が昼も夜もあちこちで上がり、9月になっても続いた。授業再開は11月末。亡くなったり、けがをするなどしてクラス50人中30人くらいしかいなかった。「息子はいないか」と尋ねてきた母親もいた。

のどや口の調子がずっと悪い。舌に腫瘍(しゅよう)ができ、2009年5月に切除した。
<私の願い>
理屈抜きに戦争は嫌だ、被爆は嫌だと叫ばずにはいられない。当時、どこからも援助はなく、自力で生きるしかなかった。多くの人々の犠牲の上に現在の裕福な社会があることを忘れてはいけない。地震や水害のような自然災害と違い、人為的な原爆投下は絶対に許せない。戦争をこの世からなくそう。

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