1944年に、湯江村(現在の島原市有明町)にあった県立の農民道場(経営伝習農場)に入った。農家の後継者を育成する施設だが、戦火が激しくなると、勉強どころではなくなった。食料不足を補うためにイモ作りなどに励んでいた。
原爆が投下された日は、道場が管理を任されていた愛野村(現在の雲仙市愛野町)の水田にいた。今でも忘れない。音や爆風はなかったが、長崎方面の空にきのこ雲が上がった。間近に迫るかのような大きさ。当時は原爆の存在を知らず、ガスタンクが爆発したのかと想像したが、雲は白かった。
夕方、歩いて道場に帰る途中、足を引きずった人が愛野駅に数人いた。原爆に遭い、列車で運ばれた愛野出身者だと思う。
翌日、長崎で道路を整備するよう指示を受けた。農民道場の全員約40人は丸1日歩き、宿舎となる時津の学校に向かった。
次の日、長崎に近づくにつれて、異臭がすごくなっていった。人の遺体はすでに焼かれていたためか見ることはなかったが、馬が至るところにひっくり返り死んでいた。
街は見渡す限り一面焼け野原で、壊滅状態。(原爆を知らなかったので)普通の爆弾でこうもなるものかとあっけにとられた。建物は鉄骨が残っている程度で、大きな木も残っているのは根元だけ。山王神社の片足鳥居には驚いた。
道路の整備は坂本町周辺で行い、道路をふさいでいた木の燃え残りやれんが、鉄などを仲間と取り除いた。暑い中、そうした作業を4日ほど続けた。
終戦のころの混乱時に、時津の学校に戻る途中、大型トラックに乗っていた米兵が、荷台の上から道路沿いの日本人をけっているそぶりを見た。長崎の惨状を見て、戦争に勝つ見込みはないと思ったが、米兵のこの行為で戦争に負けたのだと実感。涙が出た。
<私の願い>
原爆投下直後の惨状は死ぬまで、脳裏から離れないだろう。散々なもので、見た人でないと分からない。原爆の製造や使用を世界中で禁止しないと、大変なことになるのははっきりしている。これからを担う若い世代の人たちには、戦争の実相を知り、平和を願う感覚をもつ努力をしてほしい。