当時12歳で、上長崎国民学校に通っていた私は、軍用機の燃料に使うという松やにを取りに、同級生たちと山中にいた。作業を始めてしばらくたったころ、浦上方面の上空で、落下傘が落ちてきているのを眺めていた。「何やろうか、あれは」。同級生たちと首をかしげた。
しかし、落下傘が手前の山の陰に隠れ、作業に戻ろうとした次の瞬間だった。竜巻のような激しい爆風が襲ってきて、身を伏せた。
何が起こったのか、全く分からなかった。級長だった私は同級生たちと相談し、とにかく郊外に逃げようと、矢上方面を目指して歩いた。だが、どういうわけか矢上方面からも人が押し寄せる。浦上方面からもぞろぞろと避難する人たちが上ってきて混乱した。
結局、自宅近くにある西山ダムに下りた。けが人で道はいっぱい。全身に傷を負い、服は破れ、顔を見ても、男性か女性か分からない。水を求めて、ダムに頭を突っ込んだまま死んだ人もいた。無数の死体が横たわっており、すき間を探しながら歩こうとしてもなかなか見つけられなかった。
自宅近くの長崎経済専門学校(現長崎大経済学部)の裏門まで来ると、父と再会し、母や姉も無事だった。そこからしばらく歩いたところにあった水道トンネルが避難所として使われ、けが人が次々と運び込まれた。
手当てのかいなく亡くなった人たちは、専門学校のグラウンドで焼かれた。自分の背丈の倍以上に積まれた木材の上に死体が放り込まれていく。悲しさも恐ろしさもない。ただ、ぼうぜんと見つめていた。
高校卒業後、長崎市内で農業に従事した。被爆当時、同じ場所にいた同級生のうち、私の知る限りで3人が30~40代で亡くなった。原因は白血病だった。次は自分か。不安が何度も頭をかすめながら、ここまで生きてきた。
<私の願い>
あのようなことは二度とあってはいけない。私たち被爆者はどんどん少なくなっている。被爆したことは、あまり他人に言わないようにしてきたが、悲劇を繰り返さないためにも今のうちに誰かに伝えなければと思った。若い人たちには、原爆の恐ろしさを後世に伝え続けてほしい。