山手には稲佐山、眼下には角力灘を見下ろす西彼杵郡福田村本村郷=当時=の山あいに住まいがあり、両親ときょうだい合わせて8人家族で仲良く暮らしていた。
当時私は5歳になったばかり。あの日は午前中から暑く、父は三菱造船所、長兄は三菱製鋼所に出勤。他のきょうだいは小学校へ。末っ子の私は母と近所へ農作業に出掛けた。
午前11時ごろ、田んぼの草むしりやあぜ道で虫を捕まえたりして遊んでいた。鉛色の飛行機が稲佐山上空を2回ほど旋回した。しばらくすると辺りが静かになった。「ドーン」。地響きの後、ものすごい風が周囲に吹き荒れた。私は衝撃で溝に吹き飛ばされた。一方、母は「背中が熱い、熱い」とうめいていた。青空だった上空は灰色の雲で覆われていた。
「信子、帰るよ」。母は私を抱え、自宅庭の防空壕(ごう)へ駆け込んだ。家のガラスは割れ、土塀は崩れていた。「家が燃えてしもうた」「ヤギが黒焦げになったそうだ」。防空壕では大人たちが大騒ぎしていた。
通りすがりの人の中には、顔が真っ黒に焼けただれている人もいて、「おーい。助けてくれ」と叫ぶ人々も。幸い、父や長兄らは難を逃れ、命に別条はなかった。兼業農家だったため、水や食糧に困ることもなかった。長崎市中心部が「焼け野原」になった、と理解したのは、国民学校に入ってからだった。
「あの日」から62年が過ぎた2007年、突然病魔に襲われた。甲状腺がんだった。夫とともにクリーニング店を経営するなど健康には自信があったのに…。これまで3度の手術を受けた。その後、肺にも転移。現在は長崎市内の病院で3カ月に1度、放射線治療を続けている。
原爆との因果関係は分からない。しかし、私は原爆の後遺症だと疑わない。原爆の恐ろしさをあらためて思う。
<私の願い>
平和な世の中であり続けることがいかに大変で、尊いことか。いかなる理由があろうとも、戦争は許されない。人類を破滅に導く核兵器は造るべきではないし、国内に持ち込ませてもいけない。すぐにでも廃絶すべき。若い人たちには、戦争のない平和な世界、悲しみのない世界をつくってほしい。