8月9日は夏休み。汗がじわじわ噴き出る暑い日だった。当時10歳だった私は、8歳の弟と一緒に近所の畑でカボチャを収穫していた。空襲警報が聞こえ、空を見上げると飛行機が飛んでいった。遠くで落下傘がふわふわと落ちて行く様子が見えた。「何だろう?」弟と一緒に目で追った。まさかそれが爆弾だとは知らずに。
突然、どーんと激しい音と爆風。目を閉じて伏せた。家は傾き、屋根瓦が飛んだ。「爆弾が落ちた」。弟と走って自宅の下の防空壕(ごう)に逃げ込んだ。額からは爆風で飛んだ瓦が当たり血が出ていた。気が動転していて痛みは感じなかった。母に手当てをしてもらった。夕方、防空壕から出て外を眺めると、長崎駅周辺でごうごうと火の手が上がり、空は真っ赤だった。
原爆投下時に外出していた2人の兄が翌朝、帰宅。「無事で良かった」と胸をなで下ろした。近所の人たちと田上地区の防空壕に避難し、終戦まで過ごした。母から「子どもは危ないから外に出たらいけない」ときつく言われ、防空壕を離れなかった。爆心地へ救助に駆け付けた近所の消防団のお兄さんは、2年後に亡くなった。もし自分も小学生でなかったら、大人と一緒に加勢に行っていたかもしれない。
防空壕には、けがをした人が続々と運び込まれてきた。頭に包帯を巻き、やけどを負った人たちを乗せたトラックが、何回も通っていった。痛々しくて悲惨な光景だった。食料はなく、山の水を飲んで過ごした。しきりに空腹を訴える自分や弟を、母は「みんな同じだから、我慢しなさい」となだめた。
3日後、市からにぎり飯が支給された。日照りで傷んでいたが、母が芋がゆにしてくれ、久々の食事に満たされた。15日は大勢でラジオを囲み、終戦の放送を聞いた。大人は静かに泣き、母の目からも涙があふれていた。
<私の願い>
戦争は絶対にいけない。街が真っ赤に燃え上がる、あんな光景はもう二度と見たくない。戦時中は空襲警報が鳴ったら逃げ、熟睡できない生活だった。戦後は食糧難に苦しんだ。世界平和のためには、武器を持たないことが大切。武器は人を傷つけるだけ。対話で分かり合える世の中を望む。