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私の被爆ノート

ガラス片を全身に浴び

2010年9月2日 掲載
米倉ユキエ(91) 米倉ユキエさん(91) 爆心地から1.2キロの三菱兵器茂里町工場で被爆 =福岡市中央区小笹=

当時26歳。夫は出征中で7、5、3歳の3人の息子としゅうとめの5人暮らし。社員食堂の食材を管理する事務員として働いていた。あの日、倉庫から事務所に戻ると、空襲警報が鳴った。窓から外を眺めると、警備員がのんびりと空を見上げていたので「大したことなかばいねえ」とみんなで話していた。1日に何度も空襲警報が鳴る日々。逃げるかどうかをいろんな尺度で判断するようになっていた。いわゆる慣れというものだろう。

電話が鳴り、窓の方を見ながら話していると突然、空が真っ白になった。稲妻のように激しい光。「机の下に隠れんば」。そう思った瞬間、窓ガラスの破片を全身に浴び、気を失った。

気が付くと、がれきに埋もれていた。ガラスの破片が目に入り、ほとんど見えなかったが周囲は夜のように暗い。「広島の爆弾と同じやろうか。三菱やけん狙われたとばい」。そんなことをぼんやりと考えていた。

同僚に背負われ、小さな防空壕(ごう)に逃げた。その後、再び事務所にたどり着き、目からガラスを取り除いてもらったが、まだよく見えない。そのとき、茶わんにもらった1杯の水。人生で一番おいしかったが、後日、けが人を洗った後の赤茶色の水だったと友人に聞かされた。

夜遅くなっても飛行機が飛び回り、会社近くの大きな防空壕に避難。大勢のけが人が横たわり、足の踏み場もなかった。「ここで死にます。天皇陛下万歳」「ちくしょー、アメリカ野郎に殺された」。みんな口々に叫んでいたが、次第に声は小さくなっていった。隣に寝ていた男性の尿が流れてきて肩をぬらしたが、身動きが取れず、眠れぬ一夜を明かした。

翌日、西山町の自宅に戻ると、顔を包帯でぐるぐる巻きにされた自分を見て「ミイラお化けだ!」と子どもたちが元気に駆け寄ってきた。夫の戦死通知を受け取ったのは終戦後間もないころだったと思う。
<私の願い>
治療に通った新興善国民学校の救護所で、亡くなった人たちがリヤカーに次々と投げ込まれていた。手や足がだらりとはみ出て、本当にむごい光景。あの悲惨で苦しい戦争を二度と繰り返してはいけない。

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