当時20歳。体を壊し療養中だった疎開先の琴海町(現長崎市)の寺で、廊下側に伏せっていた。8月9日。扉が吹き飛ぶような爆風があり、長崎市の空は真っ暗になった。もくもくときのこ雲が昇るのを見つめた。
父は寺で住職を務めており、お弟子さんの幼子を預かっていた。長崎に残っていたお弟子さんの安否の確認のため、父と4日後に長崎へ行くことにした。
逃げて来た人の情報で「長崎は全滅した」と聞いていた。時津方面から父と長崎へ向かったが、行けども行けども、生きている人が全くいない。牛馬の死骸(しがい)があり、川に人間の死体があったようにも思う。一面は地肌が露出し、青いものは一つもない。何もない光景は、とにかく異様だった。
父の弟子は松山町のお堂にいるはずだったが、お堂があるはずの場所には何もなく、黒くなった風呂釜ぐらいしか見当たらない。捜しているそばに真っ黒になった小さな塊があった。お弟子さんの変わり果てた姿だった。一瞬にして炎で焼かれ、人間の姿を全く残していなかった。
ふと足元を見ると、土の間から黄色い物がのぞいていた。土をどかして見ると、毎朝、毎晩読んでいる法華経のお経本だった。きれいに焼けずに残っていた。不思議だった。人間が瞬時に小さな黒い塊になるようなあの熱の中でどうして残っていたのだろう。
父と見た光景がひどすぎて会話にならなかった。あの光景を見たものでないと、この気持ちは分からない。想像を絶していた。とにかく皆、死んでいる印象しかない。
疎開先に戻った後、直接、被爆を逃れた人たちが原爆症で死んでいった。私も熱が出て苦しみ、自分も死ぬのではと恐怖を感じた。この年齢まで生き延びることができたが、今でも原子野に立った時の記憶を忘れることはできない。
<私の願い>
戦争はいけない。米国が原爆を投下したことは罪悪。米国自身が、もっと反省しなければいけないと思う。ああいう経験は二度としたくない。この年になるまで生きることができたことは、ありがたいことだと思っている。原爆の悲惨な現場を見た経験というのは、われわれで最後にしてほしい。