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私の被爆ノート

ぶくぶくと動く死体

2010年8月12日 掲載
西田 ソワ(83) 西田 ソワさん(83) 爆心地から2.8キロの今町で被爆 =佐世保市春日町=

65年たった今でも、あの日の光景を夢で見ることがある。思い返すだけで涙が止まらない。

18歳だった私は三重町の実家を離れ、二つ年上の姉夫婦と松山町に住んでいた。義兄は川南工業深堀造船所の従業員。姉と私はその食堂で所員の食事を作るのが仕事だった。

8月に入り、妊娠中の姉が胸膜炎を患って今町(現在の興善町)の産婦人科病院に入院。私も休みを取り、病院に寝泊まりしていた。

その日は姉の退院予定日だった。前日に島原から来た義兄の妹と、布団を干しに朝から松山町の自宅に戻っていたが、空にB29を発見。急いで病院に戻った。病室でジャガイモを炊こうとしちりんの火をおこしていると、突然目の前に光が走り、「バーン」とものすごい爆音が聞こえた。

「地下の防空壕(ごう)へ」。医師や看護師が叫んだ。頭上に落ちてくる木やがれきを避けながら急いで逃げた。裸足で階段を一気に飛び降りたので、床に散乱していたガラスが足裏に無数に突き刺さった。窓の外を見ると、県庁がごうごうと燃えていた。

しばらくして、造船所にいた義兄が病院に迎えに来た。職場近くの防空壕に避難するため、港まで移動。真っ黒に焦げ腹だけがぶくぶくと動く死体が何十体も転がっていて、その上を何度も跳び越えた。途中、焼けただれた体で「おいっちに、おいっちに」と号令を掛けて進む3人の兵隊の姿も見た。その痛々しさと地獄のような現実に涙を流しながらひた走った。その間も飛行機はやってきて、空から油をまいているようだった。

数日後、三重町の実家へ戻ると玄関から父がつぼを背負って出てきた。「ととー」。飛び付く私に父は言った。「生きとったとか」。私たちが死んだと思い、松山町に骨を拾いに行くところだったらしい。私も姉もわんわん泣いた。
<私の願い>
あの時見たぼろぼろの兵隊や、松山町の近所の人たちはどうなっただろうと、夢に見るたび思い出しつらくなる。もう二度とあんな光景を見たくないし、子ども、孫の世代に絶対に見せたくない。たくさんの命を奪い、人々を苦しめた核兵器をなくし、戦争のない平和な世の中になってほしい。

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