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私の被爆ノート

積み上げ焼かれる遺体

2010年7月29日 掲載
川村 清二(78) 川村 清二さん(78) 爆心地から2.6キロの片淵3丁目で被 =島原市六ツ木町=

当時13歳、旧制鎮西学院中(現在の活水高の位置)2年。父はその2年前に病死。長崎市岩川町に家族4人で住み、母が下宿屋を営んでいた。

1945年の春から、片淵の長崎経済専門学校(現長崎大経済学部)にあった三菱電機の疎開工場に学徒動員され、武器の部品を作っていた。8月9日も朝から旋盤作業をしていた。

午前11時ごろ、渡り廊下の水道でタオルを水にぬらし、顔をふいていた時、ピカッと閃光(せんこう)が走った。渡り廊下の屋根を支える角材が右肩を直撃、気を失って倒れた。仲間に助けられ、防空壕(ごう)に逃げ込んだ。昼なのに辺りは暗くなり、灰などがパラパラと落ちてきた。

壕の中でしばらく過ごし、午後4時半ごろ、山越えで浦上の方へ向かった。途中、倒れた塀の下敷きになっている女性がいた。苦しそうに手を動かし、髪の毛が燃えていたので、水筒の水を掛けてあげた。ようやく岩川町にたどり着いたが、家は焼け、玄関や座敷があった所に5人の遺体が横たわっていた。黒焦げで男女の区別もつかない。母と2人の姉の行方が分からず、近くの防空壕を捜し回り「母ちゃん、姉ちゃん」と呼び続けたが見つけ出せなかった。途方に暮れていると、長崎駅の前で下宿のお手伝いさんと会い、その日は彼女の家に泊めてもらった。

翌10日も、長崎市内を捜し歩いた。途中、銭座付近で5、6人の遺体を積み上げ、焼いているのをぼうぜんと眺めた。辺りには死臭が漂っていた。

11日、島原の実家に戻った。姉2人は先に帰ってきていた。翌12日の夕方、窓の外に母の姿が見えた。家を飛び出して出迎え、涙があふれた。原爆が落ちた時、3人はそれぞれ兵器工場や防空壕の中にいたが、何とか無事だった。家族4人とも生き延びたのは、父とフィリピンで戦死した兄が守ってくれたおかげだと思う。
<私の願い>
右腕には被爆の後遺症が残り、姉の縁談がだめになるなど差別も受けた。世界各地で今も紛争が絶えないが、話し合いで解決すれば武力は必要ない。愚かな戦争を決して繰り返してはならない。核兵器が一刻も早くこの世からなくなることを願い、被爆体験を地元の子どもたちに伝えている。

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