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私の被爆ノート

燃やされ続けた遺体

2010年7月22日 掲載
吉岡 泰志(76) 吉岡 泰志さん(76) 爆心地から4.5キロの愛宕町で被爆 =長崎市八つ尾町=

当時11歳で小島国民学校の6年生。3月に父の仕事の関係で住んでいた中国から日本に帰国し、母と弟2人、妹1人の計5人で愛宕町(当時)の伯母の家に居候していた。

台所でジャガイモをふかしていると、「ピカッ」と光り、「ドーン」と音がして、爆風で鍋のふたが吹き飛んだ。けがはなかったが、黒い雲で太陽は隠れ、辺りは夕方のように暗かった。

外で遊んでいたきょうだいが自宅に帰ってきたが、腕や背中にガラスの破片が突き刺さり、着ていたランニングシャツが血に染まっていた。家には薬も脱脂綿もなく、ガラス片を手で抜き、ぬらしたタオルで傷口の血をぬぐうことしかできなかった。数時間後、外出していた母が帰宅。家族5人で近くの防空壕(ごう)に避難した。道路には窓ガラスや屋根瓦の破片が散らばっていた。

防空壕には、近くの住民20人ほどが避難しており、夕方には、爆心地近くで被爆した人たちが別の防空壕に避難してきた。服は裂けて、全身にやけどを負いながらも、「弟はいないか」「息子はいないか」と家族を捜していた。その日の夜は防空壕で過ごしたが、街の様子が気になり、近くの山に登ると市街地は火の海だった。「これからどうなるのか」と不安だった。

当時、伯母の家で一緒に暮らしていた20歳前後のいとこはきれいで優しく、よく話もした。被爆した状況はよく分からないが、被爆後は伯母の家の6畳間に敷いた布団で一日中、横になっていた。部屋に近づける雰囲気ではなく、言葉を交わすこともなくなった。時折、ふすまの向こう側から苦しそうなうめき声が聞こえ、かわいそうに思ったが、自分には何もできなかった。約2カ月後、いとこは死んだ。

被爆して数カ月後に行った市街地は焼け野原。数カ月間、中島川や浦上川の川原で遺体が燃やされ続け、真っ黒い煙と強い異臭が漂っていた。
<私の願い>
世界一周の船旅をした際に、戦争を放棄した日本の憲法9条が世界各地で評価されていることが分かった。なし崩しで戦争に陥らないように歯止めとして憲法9条は守らなければならない。核兵器がある限り平和はこない。子どもたちの世代に戦争のない平和な世界を残したい。

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