旧満州(現中国東北部)出身。1944年に南満州鉄道の職員だった父が列車事故で殉職したため、同年、父の郷里の長崎に引き揚げてきた。片淵3丁目に母と私、弟の3人暮らし。12歳だった私は瓊浦女学校の1年生だった。
私は母と台所で昼食のすいとんを作っていた。雷よりもっと明るい閃光(せんこう)が走った。「ドーン」というごう音とともに吹いた爆風で2人は台所の端まで飛ばされた。奥座敷のたんすが玄関まで飛ばされるなど家中はめちゃくちゃ。外に出ると、自宅は大きく傾き、倒れた家屋もあった。近所で火の手が上がったが、大火事には至らなかった。
幸い、3人ともガラスの破片が刺さった程度。自宅から北へ約1キロ離れた旧長崎経済専門学校(現長崎大経済学部)裏の防空壕(ごう)へ急いだが、道はがれきの山で思うように進めず、だいぶ時間がかかった。
防空壕に着くと、近所の人たちが恐怖に身を寄せ合っていた。けがをした人はいたが、やけどを負った人はいなかった。防空壕の中で大人たちは何が起きたのか、話し合っていた。「新型爆弾だろう」と言う人もいた。
夕方になると、浦上方面から金比羅山を越えて避難してきた人が続々と現れた。初めて私たちの被害が軽かったのだと分かった。彼らは顔や頭髪が真っ黒に焦げ、この世の人と思えぬ恐ろしい形相で助けを求めてきたが、自分たちのことで精いっぱいで、十分な手当てをしてやれなかった。浦上方面は火の海で、夜になっても空が真っ赤に明るかったことを鮮明に覚えている。
1週間後、爆心地近くの家野町の知人を訪ねた母は5年後、体調を崩して亡くなった。92年には私が乳がんを患い、右胸を全摘出した。どちらも被爆の影響だと思っている。
<私の願い>
若い世代にはもう二度と戦争、原爆の悲惨さ、むごさなどを味わわせたくない。戦後65年を迎えようとしている今、原爆を体験した人もだいぶ少なくなってしまったが、残された私たちがこれまで以上に声を大きくして核廃絶、平和をアピールしていかなければならないと考えている。