長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

死の恐怖と隣り合わせ

2010年7月8日 掲載
小山 彌一(80) 小山 彌一さん(80) 爆心地から2.8キロの片淵1丁目で被爆 =西海市西海町七釜郷=

当時15歳。故郷の七釜村(現在の西海市西海町七釜郷)を離れ、長崎市の三菱電機製作所の中等科生として片淵1丁目の兵器工場で働いていた。

あの日は、午前10時半に小休止となり仲間5、6人でクモをけんかさせて遊んでいたら「非国民」と大目玉。横一列に並ばされ、班長にほおを張られていた時、上空にB29爆撃機が見えた。

直後、機体から銀色の鉛筆形をした落下傘付きの物体が、次に爆弾のようなものが落ちるのが見えた。物体は後に、「ラジオゾンデ」と呼ばれる爆圧等計測器だったことを知った。班長に促され工場に戻った瞬間、青白い光に包まれ、顔に熱湯を掛けられたような感覚になった。ものすごい爆音と震動で窓枠が次々と外れ、ガラスが砕け散った。

何が起きたか分からず、防空壕(ごう)に逃げ込んだ。しばらくするとすすが混じったような雨が降ってきた。1時間ほどすると、長崎駅方面から学徒動員の学生たちが逃げてきた。何人かは、黄色い吐瀉(としゃ)物を口から出して倒れ、その場で死んでいった。

矢上にあった会社の寮に泊まり、翌日から爆心地付近で社員の家族らの捜索にあたった。同僚の川原守君と現場で、焼けただれた遺体をリヤカーに3、4体乗せては、旭町の工場に運んで焼いた。道すがら「水を欲しい」と苦しんでいる人たちを見ても、かわいそうと思わなくなっていた。

心身ともに疲れ果て14日に班長に願い出て実家に帰ることにした。翌日帰り着くと、両親は既に自分は死んだものと思っていたらしく、「本物の彌一か」と顔をくしゃくしゃにして、お互い抱き合って喜び合った。

9月ごろから後髪の毛が抜け、体はやせ細り、死の恐怖と隣り合わせの日々が続いた。翌年の2月ごろ、医者から良くなったようだ、と言われた時には、「命に縁があった」と、感謝の気持ちでいっぱいになった。
<私の願い>
悪夢のような戦争や、原爆で多くの命が失われた。あの惨状はもう二度と経験したくない。しかし、世界にはまだ、何万発もの核兵器が存在している。戦争は絶対にしてはいけない。若者たちには、核爆弾を世界中からなくし、二度と戦争を起こさないような世界を目指し、頑張ってもらいたい。

ページ上部へ