当時12歳、旧制鎮西学院中(現在の活水高の位置)1年生。南島原市加津佐町に生まれ育ったが、小学生のころ、両親を病で亡くしたため、長崎市稲佐町の叔母の家に世話になり、通学していた。
あの日は登校し、空襲警報が解除された後で、綿ずきん姿だった。その後のことは断片的にしか思い出せない。気が付けば、泥煙の中にいて一寸先も見えず、意識がもうろうとしていた。どこにいたのか分からない。4階建ての校舎は崩壊、校門そばの防空壕(ごう)の木の扉が壊れていた。中に入っていたのか、それとも外にいたのだろうか。左肩を骨折し、ガラスの破片のようなものが刺さっていた。やけどはなかった。
学校から、警防団服の男性が私の名札で判断したのだろう、叔母の家がある稲佐まで送ってくれ、道はがれきの山と化し、火の手を避けながら死に物狂いで歩いた。壊れた家の下敷きになっていたり、川の縁で大勢倒れていたり、悲鳴を上げていたり、悲惨な光景が脳裏に焼きついている。
稲佐町の家の近くで叔母らと再会、無事を喜んでくれた。肩のけがの手当てを受け、夜は防空壕で過ごした。叔母の長男で旧制瓊浦中1年のいとこは、大やけどを負って苦しそうでしゃべれなかった。数日後、長与町の叔母の知人宅に移り、いとこは被爆から1週間後に息絶えた。
私は髪の毛が抜け落ち、被爆から1年近く、下痢が続いて体はやせ細り、死の恐怖と隣り合わせだった。体調が戻ると、「人の世話になりたくない」と鎮西学院を退学し、職業訓練校に通いながら寝る間も惜しんで働いた。肩のけがのせいで左腕が高く上がらず、重労働はできなかった。家庭環境に恵まれず、原爆に遭遇、戦中、戦後、どん底の生活を味わったが、何とかはい上がり、生計を立て、子どもにも恵まれ、先祖を大事にすることができた。
<私の願い>
これまで、あの日、あのころと正面から向き合うことがつらくて体験を語ることを避け続けてきたが、伝え残す使命があると思い立った。悲惨な戦争を二度と繰り返してはならない。命ある限り、恒久平和と核兵器廃絶を訴えたい。被爆団体の一員として力を合わせ、平和活動を続けていく。