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私の被爆ノート

梅干し色の太陽かすむ

2010年6月24日 掲載
奥平 房枝(75) 奥平 房枝さん(75) 爆心地から2.3キロの大黒町で被爆 =長崎市八つ尾町=

けがでもしていれば、それを見るたびに思い出すのだろうけど…。あの時の記憶をひもといてみても、ただ目の前の出来事に驚き、ぼうぜんとした自分の姿が浮かぶだけだった。

西坂小の5年生、10歳だった。家の近くの本蓮寺で近所の子たちと一緒に勉強するのが夏休みの日課だった。本堂に続く長い廊下に机が並び、引率の先生が勉強を教えてくれていた。

境内の庭に出て遊んでいた時だと思う。飛行機がやって来たと思うと、木々の間を抜けて、カメラのフラッシュのような光を感じた。「あら、何か光った」。直後に、爆風がやってきて、机も戸も吹き飛ばされた。どうしたかは覚えていないが、幸いみんなけがはなかった。寺が高台にあったからかもしれない。

「金比羅山に逃げろ」-。しばらくすると、自警団の人が慌てて叫んだ。下にあった「鐘つき堂」が燃えているらしく、周囲の木々に燃え移った炎が見る見るうちに寺の方まで上がってきた。

みんなで山に逃げた。途中、上を見上げると、どんよりした曇り空があった。梅干しのような色をした太陽がかすんでいた。避難した山手では田畑にボーッと座っていた。みんなと何を話したかも覚えていない。

夜になり、火の手がおさまったので境内にあった防空壕(ごう)で一晩過ごした。コップによそわれた一杯のぞうすいも、食べることができなかった。今思えば、精神的な疲れがあったのかもしれない。

翌日、母が迎えに来た。家は燃えてしまい、寺に持って行ったわずかな勉強道具だけが手元に残った。しばらくして日見の親せきの家に身を寄せた。周囲の様子が一変し、訳が分からなかったが、そこで浦上の方に新型爆弾が落ちたと初めて聞いた。

原爆から逃れる時、友人や家族が一緒だったから大きな不安を感じることはなかった。それと、戦時中は緊張の毎日。良くも悪くも、そういう日々に慣れてしまっていたのかもしれない。
<私の願い>
戦時中、逃げるために夜中に起こされたり、ひもじくてどうしようもない時があった。親を亡くした子もいた。嫌な思いやつらい体験をしたのは、すべて戦争があったからだ。
いまのような平和な日々が一番だと実感している。殺人兵器である核兵器の存在は絶対に許してはいけない。

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