私は5歳の時に病気で耳が聞こえなくなった。当時16歳。普段は家の手伝いをしていて、何をするにも母がいつも一緒だった。母は耳が聞こえない私を、空襲警報が鳴るたびに防空壕(ごう)に連れて行ってくれていた。
その日も風呂を沸かすための薪を取りに、朝10時ごろ母と隣の家のおばさんと3人で矢の平の家を出た。市役所の近くで薪を拾い、それを背負って帰ろうと伊良林小の裏を通っていた時、突然ものすごい爆風で何メートルも飛ばされ、たくさんの薪の下敷きになって背中から道に倒れた。母もおばさんも、違う方向に飛ばされて、どこに行ったのか分からなくなった。空が一瞬にして赤くなっていた。サイレンも鳴らず、突然の出来事だったので本当にびっくりした。
しばらくして、母が気を失っていた私を起こしに来てくれた。おばさんも一緒だった。洋服もはがれ傷だらけ、血だらけになった人で周りはいっぱいだった。私も頭からたくさん血が出ていたので、救護所になっていた伊良林小に母と向かった。治療のために並んだ人がバタバタと倒れていくのを見てとても恐ろしくなった。治療を受けるより、とにかく早く家に帰りたかった。
3人で家に戻ると、私たちが死んでしまったのではないかと心配していた姉が近くの防空壕で1人で待っていた。それからの数日は母たちと防空壕で過ごしたが、食欲もなく気分が悪く、ご飯が食べられなかった。
何日かたった日の夕方、ラジオで日本が戦争に負けたことを知ったと母に聞かされた。母は泣いていた。
戦争が終わった後、伊良林小の運動場で、たくさんの人を火葬した。薪の上にそのまま死体を乗せて焼いた。においも強く、まるで焼き魚のように皮膚が膨れ上がって真っ黒に焦げていくのを見ていた。火葬した後、みんなで泣きながら骨を埋めた。
<私の願い>
空が真っ赤になっていたことや真っ黒に焦げた人のことなど、今でも当時の記憶が鮮明に残っていて、思い出すと涙が出てくる。白いご飯も食べられず、いつもイモや麦ばかり食べていた。戦争は本当に怖かったし、もう二度とあんな思いはしたくない。平和な世界がずっと続いてほしいと思う。