長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

けが人救助に駆け回り

2010年6月3日 掲載
八田 信一(79) 八田 信一さん(79) 爆心地から1.5キロの家野町で被爆 =新上五島町丸尾郷=

「お前、師範生やろ」

ふいにズボンのすそを引かれ足元を見ると、瀕死(ひんし)の男が倒れていた。どうやら先輩のようだ。

「水を飲ませてくれ」

「だめです。飲んだら死んでしまいます」

「よかけん、死んでもよかけん飲ませろ。飲ませんかったら、元気になったとき打ち殺すぞ」

「だめです…」

そう言って、振り切るようにその場から逃れた。その記憶は今なお、忘れることができない。

当時14歳で、長崎師範学校(長崎市家野町)の1年生。午前11時2分は音楽の授業前で、楽器室に1人でいた。オルガンのふたを開け楽譜を立て掛け、弾き始めようとしたその時。激しい光がほとばしった。とっさに目や耳を押さえ、オルガンの下にもぐりこんだ。

気が付くと、熱くてたまらなかった。付近からはパチパチという音。だが、がれきの下敷きになっていて、なかなか動けない。必死にもがき、なんとかはい出たものの、あたりは真っ暗だった。

「目をやられた」。そう思った。やみくもに走っていると、校庭に掘ってあった防空壕(ごう)に落ちた。そこにいた人と2人で、近くの山中へ逃げた。けがはなく、山の中腹にたどり着いた後は、そこにいた上級生の指示に従い、けが人の救助などに駆け回った。

先輩らしき男にズボンのすそを引かれ、水を求められたのはその時だった。いったんは立ち去ったが、しばらくしてその場に戻ると、その男は2~3メートルほど移動し、ボウフラのわいた泥水がたまった溝のようなところに顔を突っ込んでいた。既に息絶えていた。「どうせ死ぬのならあの時、きれいな水を飲ませればよかった」。自分の行動を悔いた。

翌日からもけが人の救助などに奔走した。13日か14日ごろになって、実家の上五島に戻ろうと、大波止へ行くと、長崎に住む親せきがいた。言われるがまま親せき宅に連れて行かれると、そこには父の姿があった。私の骨を拾いに長崎に来たらしい。父と会った瞬間、体の力がふっと抜けた。
<私の願い>
どんなことがあっても戦争はいけない。戦争は人殺しだからだ。もし戦争がなかったら学校は燃えず、友達は死なずにすんだ。身近なところでは、けんかや陰口、仲間外れなどは、小さな戦争といえる。周りと仲良くすることは戦争をしないこと。みんなが仲良くすることが大切だ。

ページ上部へ