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私の被爆ノート

帰らぬ父 15年後に火葬

2010年5月27日 掲載
谷口 時恵(81) 谷口 時恵さん(81) 爆心地から1.5キロの銭座町で被爆 =長崎市天神町=

当時17歳。学徒動員で、長崎市茂里町の三菱長崎製鋼所へ通っていた。一度も仕事を休んだことはなかったが、なぜかやる気が起きず、製鋼所の門の前で引き返した。

1週間ほど前に銭座町で米軍の空襲があり、自宅の2階が被害に遭ったので、江平町の親せきの家に身を寄せていた。荷物の運び出しが残っていたので母と銭座町の自宅へ行き、帰ろうと家を出たときに飛行機が近づいてくる音が聞こえた。

突然、バーンという音がして、周囲が煙で真っ暗になった。「熱い!」と思ったら、左半身に火がついていた。だんだん周りが明るくなってくると、飛行機が低く飛んでいるのが見えた。米兵が飛行機の中から双眼鏡でこちらを見ていて、恨めしかった。辺りを見回すと、長崎の町が焼け野原になっていた。

家が大きくて陰になったため、私も母も助かった。火は母がたたき消してくれた。私はやけどをして歩けず、母に背負ってもらい近くの防空壕(ごう)へ避難した。しかし負傷者でいっぱいで中に入れず、入り口付近で寝た。

5日後、医者が近くに来ていることを聞き、治療に行った。その途中、水を求める人々に足をつかまれたりしたが、私もずっと飲んでいなかった。人か動物か分からない黒焦げの死体がいっぱい転がっていて、アメリカを恨んだ。医者を待っている間に、5日ぶりに水を飲ませてもらった。とてもありがたかった。左腕が曲がらなくなったが、半年以上かけて訓練したら治った。

父も同じ製鋼所で働いていたが帰って来なかった。時津村(当時)に運ばれた負傷者の名簿が村役場にあり、父の名前があった。役場の人が「息が切れるまでしっかり話ができた人」と覚えており、近くに埋葬してくれていた。いつかはきちんと埋葬したいと骨になるまで15年待ち、あらためて火葬した。
<私の願い>
この世の中は、親でも子でも関係なく、平気で人を殺す時代になったようだ。命を大切に考えてほしい。何事もくよくよせずに、前向きに考えていかないといけない。

私はとても近い距離で被爆したが、左半身のやけどだけで済み、70歳まで病気ひとつしなかった。これからの人生も大切にしていきたい。

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