当時20歳で、長崎市の立山防空壕(ごう)内の防空監視隊本部に勤務。口之津などに配置された監視員からの情報を電話で受け、佐世保と久留米の基地に伝えた。家族は両親と8人のきょうだいがいたが、三男の兄は既に戦死していた。
あの日は欠勤し、淵町の病院に入院中だった長兄の妻の看病に訪ねた。病室で読書していた時だった。閃光(せんこう)が刺し、次の瞬間、爆風とともに木造の病院の天井が崩落。隣のベッドの人ははりが直撃し、頭から大量に流血していた。幸い私はかすり傷程度。長兄の妻を背負い、病院の裏山に逃げた。
夕方、2人で下山した。病院の近くまで来ると、私たちを捜していた長兄と弟と再会。長兄の妻は泣きながら安堵(あんど)していた。近くの防空壕は負傷者ばかり。自宅から米を持ち出し、おかゆを炊いてけが人に振る舞っている人もいた。
食料を求め稲佐橋の方に行くと、浦上川の川面は死体で埋め尽くされていた。周りには皮膚が垂れ下がった人も。だが悲しい、怖いという感情はなかった。感覚がまひしていたのだろう。
「水をくれ」と瀕死(ひんし)の状態で、すがってくる人もいた。「やけどを負った人に水を与えると死んでしまう」と学校で教わっていたため、「頑張って帰りなさい」と言い残し、その場を離れた。「亡くなるのであれば、最後に水を飲ませるべきだったのではないか」と後悔もした。
翌日、両親と一番下の弟が疎開中の三ツ山に避難した。
2005年、親類の誘いで長崎市内を中心に活動する被爆者歌う会「ひまわり」に入った。合唱だけでなく、これまで3曲作詞。その一つが「夾竹桃」だ。70年草木が生えないとされた長崎で、被爆2年後、城山町の夫の実家で咲いたキョウチクトウを思い出して書いた。生命力の強さに力をもらって頑張ろうという願いを込めた。
<私の願い>
若い人には、核兵器の恐ろしさとともに、生きることへの感謝や他人への思いやりを学んでほしい。世界中が協力して核廃絶に向けて努力し「世界の終末時計」を遅らせてほしいと願っている。これからも「歌の語り部」として、戦争の悲惨さと平和の尊さを訴えたい。