当時19歳。時津村(当時)の自宅近くの畑で母、兄嫁と農作業をしていた。B29が飛んでいるのを見て、何とも言えない気持ち悪さを感じていた。
そしてピカッと閃光(せんこう)が走った瞬間「どかーん!」というごう音。正直に言えば、人のことはおかまいなしに夢中で家に逃げ込んだ。家は全壊を免れたが屋内は茶つぼが落ち、ガラスは割れてひどいありさまだった。
けがはなかったが、外をぼうぜんと眺めることしかできなかった。しばらくすると、近所の人が村長の家に集まり、弁当を作ろうという話になった。村長が蓄えていた米と梅干しで幾つも弁当をこしらえた。
その日の晩、道ノ尾駅に弁当を運ぼうとリヤカーを引っ張って行った。駅には重傷者を乗せた列車が到着。中の様子ははっきり覚えていないが「ひーひー」と苦しむ声は今も耳から離れない。
数日後、時津国民学校で被爆者の看護に当たった。校舎内は多数のけが人で埋め尽くされ、直視できない状況。看護といっても専門的な知識はなく、水や食べ物を与えるだけ。「水、水」とあちこちから聞こえてきた。たとえ飲ませても、体に開いた穴からこぼれることもあった。薬がないから傷口にただの油を塗った。傷口にわくうじ虫を取るととても痛そうだった。
原爆投下前に「長崎はもうすぐ灰の町」といった内容のビラを見たことがある。米軍がばらまいたのだろう。本当にそんな目に遭わせられるとは思いもしなかった。悔しかった。
被爆者の看護から2年後。原因不明の高熱を出し、一時意識不明に。生死の境をさまよったが、約半年間の療養を経て何とか元気を取り戻した。(高熱は)被爆の影響だろう。自分の体がむしばまれることなど看護中は想像すらできなかった。
<私の願い>
終戦の日、国民学校のグラウンドで日本刀を振り回して悔しがっていた軍人の姿が目に焼きついている。愚かな戦争の悲しみ、そして原爆の苦しみを味わうのは私たちの世代だけで十分。子どもたちには絶対に経験させてはならない。世界中でなぜ今でも戦争がなくならないのか本当に分からない。