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私の被爆ノート

閃光、地響きに身を伏せ

2010年4月22日 掲載
湯浅満智子(81) 湯浅満智子さん(81) 爆心地から2.5キロの西山町2丁目(当時)で被爆 =長崎市白木町=

佐世保市の自宅は空襲で焼けたため、郊外にあった料亭の大部屋を四つに仕切った空間に祖父母、両親、きょうだい5人で暮らしていた。当時16歳の私は、市内の軍需工場で双眼鏡を作っていた。県立長崎高等女学校専攻科の入学式を翌日に控えたあの日、叔母らと晴れやかな気持ちで長崎市へ向かった。

長崎駅から人力車で学校へ。寄宿舎の部屋で荷物を整理し、ひと息ついて窓を振り向いた瞬間-。ピカッと閃光(せんこう)が走り、続いてドカーンという地響き。慌てて叔母の傍らで身を伏せた。

「学校に爆弾が落ちた」と思った。ガラスの破片が額に突き刺さり、血がべっとりとついていた。廊下に飛び出すと、オルガンはひっくり返り、窓ガラスは木っ端みじん。「退避!退避!」と叫ぶ声を追い、必死で高台の防空壕(ごう)へ走った。しばらくすると黒い雨が降りしきった。

しばらくすると、防空壕には爆心地付近で負傷した女学生らが担架で運ばれてきた。衣類がはがれ、むき出しになった肌。「痛い」と叫ぶ声。なすすべもなく、傷口に塗られたのは消毒液のみだった。夜になると、爆心地の方角にある山の上から、真っ赤な炎が空にくっきりと見えた。

翌朝、私たちは佐世保に帰ることになった。校長先生から「爆心地は危険。長与から汽車でお帰りなさい」と聞き、長与を目指し山道を歩いた。途中、爆心地から逃れてきた人たちに出会った。髪や衣類は焼けただれ、言葉もなく、はだしのままゆらゆらと歩き、まるで幽霊のようだった。何もできず心が痛んだ。米軍の飛行機が低飛行するたび身の毛がよだつ思いで岩陰に隠れた。

夕方、ようやく長与駅に到着した。「やっと家族に会える」とほっとした。駅には汽車を待つ人やむしろをかぶせられた死体が並んでいた。
<私の願い>
原爆で多くの人の命が奪われた。被爆の体験は風化することなく、今も脳裏に焼き付いている。あの時負傷された方々は、今どうしていらっしゃるだろうか。核は一瞬で何もかも奪ってしまう。子どもたちが戦争の犠牲になることがない世の中であってほしい。核廃絶を心から願っている。

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