3人の兄は中国やフィリピンに出征していて、両親と長兄の妻、次兄の妻、幼いめい、それに23歳の私の6人暮らし。生活は貧しく、コメの代わりに大豆を食べていた。配給だけでは足りず、家の周りでサツマイモを育てていた。ぜいたくとは程遠い暮らしぶり。「戦争に協力するほかない」。そんな思いを抱きながら生きていた。
私は三菱長崎兵器製作所住吉トンネル工場(住吉町)で魚雷の部品を磨く仕事をしていた。8月9日は夜勤明けで、朝から自宅で寝ていた。
突然、ガラガラと耳をつんざく雷鳴のようなごう音がした。爆風で家具や建具が倒れ、縁側の窓ガラスは粉みじん。畳は吹き上がり、木造平屋の屋根に穴が開いた。庭に出ていた父は吹き飛ばされたが無事で、木陰で草むしりをしていた母も無事だった。庭で遊んでいためいを爆風からかばった長兄の妻は首の後ろにガラスが刺さった。
父は元軍医だった。それをうわさで聞いた負傷者が助けを求めて次々とやって来た。「とにかく助けよう」。天職だったのだろう。父はしまっていた医療器具を取り出した。臨時の救護活動が始まった。
父はけがの治療に当たり、私たちはそれを手伝った。母は裏で器具や包帯を煮沸消毒した。包帯といっても浴衣の古布。患者は赤や青の柄の“包帯”を着けていた。消毒液など薬品が十分にそろっておらず、傷口に油を塗った。麻酔薬もなく、患者は激痛で泣き叫んだ。
やけどの独特のにおいや、化膿(かのう)した傷のただれたにおい。例えようのないにおいが辺りに立ち込めていた。患者の火膨れした皮膚の中でうじ虫がはっていた。ひどいものだった。
戸板に乗せられ、人に付き添われ、次々とやって来る患者。力尽きて亡くなる人もたくさんいた。遺体は警防団の人たちが運んでいった。私は父を加勢するだけ。ほかのことを考える余裕などなかった。戦争が終わるまで続いた光景だった。
<私の願い>
原爆でたくさんの命が失われた。あの惨状は二度と経験したくないし、二度とあってはならない。しかし、世界には多くの核兵器が存在する。核兵器をなくしてほしい。今の世の中は平穏でぜいたく過ぎるほど豊かになった。将来を担う子どもたちはとにかく平和に暮らしてほしい。