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私の被爆ノート

空が光り一瞬でやけど

2010年3月18日 掲載
尾崎サヨミ(81) 尾崎サヨミさん(81) 爆心地から2.1キロの八千代町で被爆 =五島市三井楽町貝津=

五島市嵯峨島で生まれ育ち、15歳のころに父親が職を変えたため長崎市に移り住み、路面電車の車掌をしていた。

被爆当時は17歳。あの日、大橋を出発した電車に乗っていた。前の3台の電車が電線が切れていたため止まり、私の車両も停止していたときだった。窓が開いた電車後部の車掌台に立っていると、空が全面的にピカッと光り、あっという間に顔の半分にやけどを負った。ひりひりと痛み、制服の背中の部分もこげた。

外で電線の修繕をしていた人がどうなったかは分からない。乗客は無事の様子で全員降りた。私を含む4台の運転士や車掌も外に出て、近くの防空壕(ごう)に入った。

だが、防空壕は人がぎゅうぎゅう詰めで、奥にいた人が「息苦しい」と言うので外に出た。山道を歩き、大橋の田んぼのあぜ道に出ると、そこには髪が縮れ、顔が焼けただれた幽霊みたいな人たちが大勢倒れていた。「水をください」と繰り返すが、私と同行した誰かが「水をあげたら死んでしまう」と言うのであげなかった。飲ませてあげれば良かったと今でも後悔している。大橋付近の防空壕に一晩泊まったが、大やけどした人のうめき声で一睡もできなかった。

翌日から10日間ほどは蛍茶屋の会社の営業所に世話になった。原爆の犠牲者約50人の骨を安置していたが、名前が書かれておらず誰が亡くなったかも分からなかった。

その後、父と母が住む浦上の家へ1人で向かった。辺りは一面焼け野原だったが、父と母は無事で、飯香浦の親せきの家に移っていた。父が倒れかけた家から母を救い出したという。親せきの家で1週間ほど過ごし、父や母らと大波止から運搬船に乗って古里の嵯峨島に帰った。

振り返れば、原爆の日が、車掌を務めた最後の日だった。生き残った同僚がいれば会いたいが、もう分からないだろう。原爆の惨状は、今でも夢に出てくる。
<私の願い>
原爆は残酷で怖かった。忘れられない出来事だ。突然亡くなった多くの人たちがかわいそうでたまらない。これからは国と国が仲良くし、核兵器を持つことを早くやめてほしい。とにかく戦争のない平和な世の中になってほしい。そのためにも若い人たちには被爆者の話に耳を傾けてもらいたい。

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