岡山 クマ
岡山 クマ(79)
岡山 クマさん(79) 爆心地から1.1キロの三菱長崎兵器製作所大橋工場で被爆 =平戸市大久保町=

私の被爆ノート

今も体内にガラス片

2010年3月4日 掲載
岡山 クマ
岡山 クマ(79) 岡山 クマさん(79) 爆心地から1.1キロの三菱長崎兵器製作所大橋工場で被爆 =平戸市大久保町=

大橋工場へ挺身(ていしん)隊員を出すよう平戸の田助国民学校に要請が来ていた。高等科2年の私は志願。一人っ子で家の跡取りだった。担任は思いとどまるよう言ったが、ためらいはなかった。

長崎市住吉の神社近くの寮に住み、工場で魚雷部品の仕上げを担当。8月9日も朝に寮を出た。着いて間もなく警戒警報が鳴り、寮近くのトンネルに避難。警報解除になり、工場へ駆け足で戻り作業をしていた。

突然、ピカッと光った。爆風で飛んできたガラス片が右ひじから背中に突き刺さっていたのを後で知るが、そのときは痛みも、どう逃げたのかも覚えていない。気が付くと道端に倒れていた。誰かが葉の付いた木の枝を体にかけてくれていた。

振り向くと、大橋工場の柱の鉄骨があめのようにグニャッと曲がっていた。沈みかけた太陽は卵の黄身のようで、手を伸ばして触ると落ちてきそうだった。

工場の憲兵に、暗い道を寮まで連れて行ってもらった。師範学校校門のそばを通りかかると負傷者でいっぱい。「助けて、助けて」の声が耳に残っている。寮も大勢の負傷者。外の広場にも寝かされていた。

その夜、救援列車が寮の前の方に止まった。朝鮮の人に背負われて汽車まで行き、タラップを懸命に登り車内へ。通路に座り込んで寝てしまった。途中で降りる体力はなく、終点の佐世保市の早岐駅まで。救護所になっていた早岐国民学校へ運んでもらった。3日ほど昏睡(こんすい)状態が続いたという。

同じ年ごろの男の子のえぐれたおなかから、大きなうじが出入りしていた。「お父さん、お父さん」と助けを求めていた姿が忘れられない。18日に平戸へ帰郷。母は安否をよほど心配したらしく、やつれはて、45歳だったのに80歳ほどのおばあさんに見えた。

体の傷は520個もあった。傷あとが気になり暑くても半袖を着たことはない。右腕と背中には今も摘出できないガラス片各2個が残ったまま。
<私の願い>
戦争は二度としてはいけない。原爆は造っても、持ってもだめだ。原爆に遭ったら本人だけでなく、家族まで影響を心配しないといけない。核兵器は世界からなくさないといけない。恐ろしさを伝えていかねば。平和な暮らしが続くことを願っている。

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